© MURAKAMI@Brooklyn Museum

  
村上隆は思っていたよりウォーホールに近かった。
ブルックリン美術館で開催中の展覧会に行った。彼の作品を実際に見るのは初めてだったが、他のアートワーク同様に、印刷物やネット上と本物とでは違う。
お花の部屋が一番気に入った。壁まで全部花で埋め尽くされ、中央に花のオブジェがある。ひたすら明るくカラフルでフラットな世界に、瞬間的に脳が空っぽになり、へらへらと無条件に笑ってしまう。インパクトは多少劣るものの、マジックマッシュルームのオブジェや、展覧会のポスターになっている大きな絵からも、脳内麻薬に気持ちよく身をゆだねた。
しばらくすると、見る人を無防備にさせ分析を拒絶する彼の作品が、なぜ日本よりも海外で受けるのか分かったような気がした。のんびりした日本社会では、緊張感があり批評文化の発達した欧米に比べ、衝撃が少ないのだと思う。分析に慣れている人々に、分析しなくていいことを許す快楽。非常に細かく色指定された下絵など、おバカな印象とは裏腹な製作過程の大変さを示す展示もあった。苦労を見せないのがプロ根性と思うアメリカ人に比べ、時に成果そのものより苦労を尊ぶ傾向のある日本人(映画「フラガール」に見るような)には受けが悪いかもしれない。
しかし、同時に「おたく」アートとしての限界も感じた。作品のモティーフがおたくというだけではなく、その受け入れられ方も「一般的な」アートより狭いのではないかという疑問が生じた。同行した夫が指摘したように、ポップとアートの融合という衝撃とそれによる作品そのものの出来はウォーホールに及ばない。個人性を極力排除したフラットさは衝撃的だが、その分人間的な深みはない。また、漫画的な表現だったら、アメコミなどの優れた作家に及ばない。が、村上はそうしたことを全てふまえた上で、確信犯として振舞っているのではという思いも、実際に作品を見た後では浮かんだ。村上自身も、日本人は子供のままの「リトルボーイ」だと言っているように、彼の作品はアメリカの心理的植民地支配の下で物を考えなくなった日本への皮肉そのものであり、そうした状態を考えさせるためのきっかけ、カンバセーション・ピースとしての存在なのではないだろうか。そのような作品が、それらの問題に一番気づくべきはずの日本よりもアメリカで受けており、支配者がエキゾティックな物を見下ろす余裕が感じられてしまうという、一種皮肉な結果になっているのだが。
http://www.brooklynmuseum.org/exhibitions/murakami/