おばあちゃん Part3

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納棺・通夜。前日、葬儀場に移された遺体を見た母が、死の直後よりずいぶん崩れてきたと言ったので、そのショックに耐えられるかどうか不安だった。が、家に一人でいるのも変なので、2時ごろ両親と共に葬儀場に行き、納棺を行う。泣いたが、行って良かった。


頬がくぼんできたと聞いたが、葬儀場で綿をつめてくれていたので、見慣れない顔にショックを受けることはなかった。冷たい手を握り、頬と額に手を当て、頬っぺたにキスした。薄い色のマニキュアを施された手は、荒れ性の私が恥ずかしくなるようなきれいな手だった。透明なリップクリームだけ塗った唇は、明るいロゼワインの色につやつやとして、唇そのものに色がついていることに改めて気がついた。家に来た医師も「おばあちゃん口紅塗ってる?」と聞いたそうだ。靴下が少し曲がっていたので、葬儀場の人に直してもらう。


両親と私、葬儀場の人二人で、ストレッチャーに乗った遺体を下に敷いた白い布ごと持ち上げて棺に移す。葬儀場が用意したのは、三途の川の渡り賃である印刷された六文銭や杖と守り刀、白い帷子。刀は胸の上に、帷子は上にかけた。父が手で書いた1万円札5枚と、大好きな海外旅行に行って困らないように私から1ドル札を入れる。母と私が以前に書いた誕生日カードも、遺品の整理をしていて見つけたので入れた。顔の向かって右横に、私が2月にあげたテディベア、左に茶のニットクロシェを入れた。


棺のふたを閉じてから、頬に白っぽいホコリのようなものがついているのに気付き、葬儀場の人に見てもらったら、皮膚の一部で直せなかった。できるだけきれいな姿で送ってあげたいと思い、改めて見直したときに気づいたので、告別式の客は気づかないだろう。遺体を見て触れても涙が出なかったのに、母が用意して葬儀場で飾ってくれたおばあちゃんの海外旅行の写真や木彫り作品のコーナーを振り返ったら泣けてきた。声を上げて、隣にいる母の肩を抱いた。


いったん家に戻り、喪服に着替える。5時から通夜。父の弟夫妻が静岡から来る。通夜の前に坊さんの控え室で戒名の説明を受ける。坊さんへの謝礼は通夜と告別式、火葬場で30万円なり。坊さんは、お経を上げている最中に線香の煙にしばらくむせていた。時差ぼけでうとうとしそうになったので、胡散臭いと思うよりはありがたかった。通夜の後、叔父たちは帰り、私たちはまた家に戻り、着替えて駅前の居酒屋に行く。父は私と飲むために、一番高い冷酒をボトルで頼んだ。時差ぼけで座ったまま眠りそうになる。


5/8
午前10時半から告別式と初七日の式。昨日は雨だったが、喪服が暑いくらいの素晴らしい天気になった。おばあちゃんが誇りにできる孫であるように、昨日よりもきちんと化粧と髪を整える。陽射しがまぶしくて、JFKの葬式の時のジャッキー・ケネディみたいに見えるかなと馬鹿なことを思いつつ、黒いレトロなサングラスをかけたら、母にいやがられた。父の弟夫妻、母の姉妹3人に弟1人とその配偶者たち、祖母のお稽古友達などが来る。お悔やみの言葉のやりとりだけでなく、旅行の写真や作品も見てもらって、おばあちゃんの人生の展覧会のようだった。母の妹の夫は、祖母と行った旅行の写真アルバムを持ってきてくれた。家からは水泳のメダルの一部を追加で持っていった。


坊さんは、通夜より気合が入っていてむせなかった。袈裟からして今日は金ぴかだ。棺の後ろには、様々な花でぎっしり埋まった祭壇がある。ピンクの濃淡の胡蝶蘭を中心に、白百合やピンクのカーネーションが祖母の写真を頂点としたピラミッド型に並び、両横には白菊多数に濃いピンクの胡蝶蘭を一本だけあしらったシンプルなアレンジ。5月10日の母の日には、母から祖母に胡蝶蘭を送ることになっていたと葬儀社に話したところ、阿部さんという担当の女性が胡蝶蘭を中心にアレンジしてくれた。葬儀社の人も看護婦も医者も良い人で、告別式は晴れで、おばあちゃんの人徳だねと母と繰り返し語りあう。お経と焼香の後、飾ってあった花を出席者全員で棺に入れた。全員が両手に持っても3周するくらいのいっぱいの花に埋まったおばあちゃんはきれいだった。テディベアと帽子を入れなおす。さみしくないように、熊の顔がおばあちゃんの顔の隣に来るようにした。最後に、額にキスしようと顔を近づけたが数センチのところで届かず、自分の唇に当てた指を額にのせた。棺の扉が閉じられた。父が位牌、母は写真、私は花束を持って火葬場に向かう。


父は霊柩車に乗り、他の親族はマイクロバスで火葬場へ。お稽古事の友達は告別式だけだったが、祖母の作品を持っていってもらった。市立の火葬場で、敷地内には3〜4件の火葬場がある。私たちが入ったところは、かまどが20ほどずらっと一列に並んでいる。持っていた花束を棺の上に置く。坊さんが短いお経をあげてから、棺はかまどの中へ。父はかまどの番号札をもらい、骨はそれと引き換えになる仕組み。


焼き上がりを待っている間に控え室で昼食。父は、食べる前に短いスピーチをした。人前で話すので緊張しているのか、告別式の時以外はずっと、小型ペットボトル3本に入れた持参の日本酒を1人で飲んでいた。「母は98歳という長寿をまっとうし、医者が死亡診断書の死因の記入に困ったほど健康だった。最後の半年の、妻の献身的な介護に深く感謝している」と言って泣いた。前日、車の中で出だしを聞かされ、その後は秘密と言っていたので、それほど意外ではなかったが、母のためにうれしい驚きだった。父の弟が乾杯の音頭を取る。昼食の仕出し弁当4000円はおいしくもまずくもない。こういった席にはこれでいいのかもしれない。去年亡くなった従姉の父としばらく話してから席を立ち、母方の親戚と話しに行く。震災当時の経験を聞き、原発の話をした。大人になって、久しぶりに会った叔父叔母と対等に話ができるのは悪くない気分だ。


食べ終わってまもなく、焼きあがる。棺は跡形もなく、骨と骨折して足に入れた金属だけがのこっている。ニューヨークで、私の学校友達のトリニダードトバゴ人の男の子の結婚披露宴に行き、楽しく酔っ払ってアパートの前でタクシーから降りる時、あっという間に転んで骨を折ったのだ。


別室で骨を拾う。お経の後、二人一組で両側から一組の箸で骨を拾う。大腿骨と下あごの骨が立派だった。よく噛んで食べていたからなあ。葬儀社の阿部さんが、病気をしないで死んだ人の骨はきれいな白だと言ったとおりだった。死んでからも褒められて何だかうれしい。耳の骨が意外に大きかったのも印象的だった。納骨の係の中年男性は、箸ではさめない細かい骨や灰を、ちりとりとブラシで集めて注意深く骨壷に入れる作業を数回繰り返す。骨壷を白木の箱に入れ、白布にしゅっと包んで袋に入れるまでの無駄のない手際と出来上がりが美しく、日本文化だなあと感じ入る。骨壷を持った父が先頭、次に母と私の順で焼き場を出る。終わった。最寄り駅で親戚と別れ、私たちは葬儀場に戻り、展示されていた祖母の写真などを持ち帰る。家で引き出物の羊羹を食べた。


5/9
短い滞在なので、山ほどある遺品整理に取り掛かる。何が出てくるか興味もあるし、介護で腰を痛めた母の手伝いをできるだけしようと思った。遺品の中にあった、祖母が作ったろうけつ染めのカラフルな三角巾をかぶり、押入れの床から天井までぎっしり詰まった遺品とホコリと格闘。物を捨てない人らしく、なぜこんなものまでと思う物も沢山あるが、お宝も発見した。これは私がもらうとか、これは似合わないとか母と楽しみながら整理していった。


夜は、整理する時によけておいた日記などを読んだ。旅行記は沢山あるので、自分が行ったところや中国北朝鮮など面白そうなところだけを選んだ。名所の由来などはきちんと書いてあるが、自分の感想は素晴らしかったとか一言だけ。何を食べ飲んだか、移動中の様子なども名所と同じ分量で書いてある。NYやウィーンなど自分が知っているのと同じ場所とは思えないほど、旅の感動が伝わってこない。いかにも教師らしいというか、それでも時々生身の感想が飛び出してきて面白い。決まったメンバーで旅行していたので、昨年したのと同じことをしたとか、当時ロスにいた父の弟一家を訪ねた際の最後には「友達と一緒の旅でなかったのでとても疲れた」と書いてあった。この時は、高校生だった私が行きの飛行機で酒飲んで吐き、帰りは祖母が吐いた。


祖母は、家族より友達や同僚、自分の生徒のほうが大事だったらしい。母もそう言っていたし、少なくとも父の弟は、小さいとき可愛がられた記憶がないと言っていたので、家族の印象どおりだ。裏表はあまりない人だったというのも家族の印象だった。裏表のない人にとって、友人との海外旅行や稽古事は、嫁との同居生活にとって欠かせない息抜きだったようだ。そうやって、義理の母娘は40年近く仲良く過ごしてこられた。別の旅行では、同行の友人の部屋を訪ねようとしたら「中から男の声が聞こえたのであわてて逃げた」との記述があった。当時74才である。よっお嬢!


昭和19年、祖母が31歳のときの日記もあった。元日から大晦日でまでが、えんじ色の日記帳に記されていた。後の旅行記と違って読みづらいが、分かるところだけ解読。生まれ育った東京にいるが、3人の幼い子供たちはかわるがわる病気になる。夫は出征して行方が分からず。後のほうに、死んだと思っていたら突然戻ってきてびっくりしたと書いてあった。食べ物の調達が大変と言いながら、おいしそうな頂き物の記述も何回かあって、人々は助け合いながら何とかやっていたのだなあと思った。


戦後の、女子高の家庭科教師時代の閻魔帳もあった。5段階評価の点数はやや厳しい印象。作業や作品の出来はもちろんだが、自分の仕事だけでなく周りを手伝う自発性や気配りを評価している。それらが欠如している生徒やうそつきには厳しい。


5/10
大学時代の友人宅を訪問。娘が二人いて、7歳の子と絵を描いて遊ぶ。中学1年の子は放課後は部活で、いつもは友人が夕食の支度をしていると一人になってしまうので、遊び相手がいてうれしかったようだ。友人と一緒にそろばん教室の送り迎えをしたりと、普段の生活に入り込ませてもらい、仕事から帰ってきた旦那と話し、3人でワインを空けたりしているうちに、なんだか居心地がよくて、ソファに座ったまま一時間ほど寝てしまった。気がついたら上の子も帰ってきていて、下の子と一緒にぬいぐるみで遊ぶ。今から帰ると家に連絡してからも、しばらく立ち去りがたかった。二人の子供のことが心配で、震災後元気のない友人を励ます訪問だったが、思ったより元気そうで安心した。友人からは、来てくれて元気になったと言われてうれしかった。特に何もなかったとしても、普通に生きてくだけでも結構大変だもんねー。


5/11-12
両親と強羅の温泉料理旅館へ。おばあちゃんも両親と来たことのある場所で、彼女の写真を持っていく。あいにくの雨だが、新緑がけぶって美しい。山のホテルのつつじは咲き始めたばかりだったが、つぼみのほうが多いのも可憐。


14日にニューヨークに帰ってきて、祖母が作ったろうけつ染めの布をテーブルクロスにしたり、ロフトの階段のところの壁に飾ったりしていたら、時差ぼけにもかかわらず元気になってきた。センチメンタルな懐古主義の美しさだけでなく、時間と空間を越えて実際の生活の一部となっている力強い美しさだからだろう。翌日の出勤には、祖母の青系ストライプシャツと琥珀のネックレス、着物地の札入れ、ろうけつ染めのショルダーバッグを自分の定番ワードローブと組み合わせた。カーキがかった茶に緑の横線が入った布に菊模様の金属バックルのついた、お茶の水女学校の制服のベルトは、ジーンズにもまた流行ってきたロングスカートにも合う。最近ニューヨークで新プリントが公開された映画「細雪(市川昆監督)」の感想に絡めて、同僚とお互いの祖母の思い出を語り合ったりもして、なんだかおばあちゃんが死んだ気がしない。ニューヨークに来てから16年、片手で数えるほどしか会っていないし、急におばあちゃんのものに囲まれたからだ。


古い千代紙がたくさん中に入っている、千代紙をパッチワークにした表紙の紙ばさみも持って帰った。小学生のとき、母が仕事から帰ってくる前の放課後に、祖母と姉様人形を作り、着物の柄を一緒に選んでもらった。そのファイルの中の千代紙は一枚一枚見覚えがあった。祖母の部屋の文机に当たっていたやわらかい陽射しまで覚えている。何でも捨てず、鼻紙までストーブの上で乾かしてリサイクルしていた祖母だったが、私が作った姉様人形の型紙もそのままとってあった。


気に入ってよく着ていた服やアクセサリーも覚えている。茶系の地味な装いだったので、一緒にいると気づかなかったが、あらためて写真を見て、立ち方までお洒落な人だったと気づく。女学生時代のアルバムを見たら、おおらかに笑っている美人でおとなしそうな姉と、自分が美人でないことを知っているが、毅然とした態度とお洒落でそれを補おうとしているように見える祖母がいた。それでも、クラス写真では誰よりも屈託なく笑っていた。私が生まれる前の家庭科教師時代に手がけたろうけつ染め作品や昔のアルバムを見たりするうちに、ざっとだけども祖母の人生が、当時の社会背景とともに立体的に、一緒に暮らしていた時よりもつかめるようになってきた。思い出と発見を与えてくれてありがとう。私のおばあちゃんは、歴史を生き抜いた個人だった。歴史の一部だから、ずっと生き続ける。


21日夜、母とスカイプのビデオ通話で話した。母はまだ祖母の部屋を片付けている。夏までには模様替えして、自分の部屋兼客用寝室にするつもりらしい。母はこれまで、2階の私の部屋を使っていた。昭和47年、当時設計士だった父は家族のためにこの家を設計し、日当たりがよく庭の眺めもいい一番いい場所を、おばあちゃんに与えた。母によると、意図的な選択かどうかは疑問で、無意識が働いていたのかどうかは、父のぶっきらぼうな態度からは分からない。でも、父が定年後に、手狭だったおばあちゃんの部屋の増築のために図面を引いたのは事実だ。両親は前から増築の話をしていて、布団の上げ下ろしが大変そうになってきたのでベッドにしてあげようと母が提案し、そうすると場所がなくなるので増築が必要だと父が結論した。庭に向けて張り出したため、いちばん日当たりと眺めの良い部屋になった。



左がおばあちゃん、右がお姉さん、真ん中が妹。