おばあちゃん Part2

5/2
夜、父から短いメール。
9時39分
「5月3日
10時5分 なくなりました
最後は、静かに、ひきとりました
取り急ぎ連絡まで」


9時43分
「5月3日、朝10時5分 亡くなりました
最後は 安らかに 閉じました
とりあえず 連絡まで」


日本とニューヨークは13時間の時差があるので、亡くなったばかりのメールだった。すぐに電話すると母は泣いていた。看護婦が体をきれいにする手伝いをするところで、「あっけなかった」と言って、すぐに切った。1時間ほどしてまた電話すると、ずいぶん落ち着き、涙もあったが笑いもあった。すでに死化粧をして、母のダンス発表会のときに買った5万円するちりめん地のドレスを着せた。眠っているようなきれいな顔で、死んだとは思えないとのこと。


5月2日夜、おしっこがしたいからと「あき江さーん」と大きな声で母を呼んだ。結局うんちで、びっくりするほど出てきた。オムツだからそのまましていいんだよと言ったが、慣れてなくてうまくできず、母が手袋はめてかき出した。あまり臭くなくきれいで、黒と茶の間の色でペースト状だった。大量のうんちをしたら、安心して眠った。


翌朝5時半ごろ、うなり声で起こされる。おなかが痛いらしく、「いたーい」と近所中に聞こえるような声だ。また大量のうんちをした。肛門が開いている。看護婦に来てもらったら、とりあえず落ち着き、看護婦は帰った。「私の裁きは大丈夫かしら」と当日朝ぶつぶつ言っていたそうだ。母が「おばあちゃんは立派な人だから大丈夫」と言ったが納得したかどうか。何に対する裁きなのかはわからない。落ち着いてから母に「もういいから寝なさい」と言ったのが最後の言葉だった。母は「もう朝だから大丈夫よ。ずっとついていてあげるから」と答えた。


母が少し家事をしてからおばあちゃんの部屋に行くと、はーはー言っている。吐くだけで吸えない感じ。30分ほど母に手を握られたまま、静かに亡くなった。気がついたら息が止まっていた。看病に対する感謝の言葉もなかったが、母は「最高の嫁だ」とすでに褒められているから良しにしよう、「ありがとう」といって死んでいくのはドラマの中だけのことかもしれないねと言った。朝来た看護婦も、血圧が落ちているのと脈がとりにくくなっていることを指摘した。数日前には、足がむくんできたので、1週間単位でそろそろかもしれないと言われていたそうだ。


また看護婦に来てもらい、死亡を確認する。ゴールデンウィーク中で医者はすぐ来れず、とりあえず体をきれいにして化粧をする。またうんちが出て、おなかを押したらおしっこも出て、オムツと大きなパンツをはかせた。食べられなくなって、体をきれいにして死んだのだ。動物が死ぬときと一緒だ。人間も動物も生き物なのだな。最後に口にしたのは、看護婦が前日すすめてくれた栄養ドリンクで、バニラとコーヒー味からコーヒーを選び、おいしいと言って100ミリリットルほどごくごく飲んだ。


天然ボケの母は自分自身がジョークのような存在のときもあるが、祖母の世話に関しては、大変な状況にしっかりコミットしつつも、距離を置いて状況を観察し、ユーモアで表現できることに感心し、見直した。エピソード第3弾について電話で話したときも、介護施設に入れたら楽かもしれないが、面白がれることもなくなるといっていた。祖母は、私たちが介護を面白がれるうちに逝ってしまった。母は祖母を良いお手本だといっている。最後の最後までぼけずに苦しまずに死んで、母のことも気遣って、私が死ぬときはそうなれるかまったく自信がない。


父は、さすがにぐっと来ていたようだが、遺体のそばには寄りたくないらしい。死ぬときもそばにいなかった。用があるときには母を呼ぶので「ご指名だから」と言って手伝わなかった。プライドと劣等感のなせるわざか?看護婦を呼ぶようになり世話が大変になってきてからは、さすがに手伝うようになった。母がいないときに遺体のそばに寄っていたそうだ。朝、母が起きると、父がすでに線香をあげている。


祖母は地味ながらお洒落だったが、美人ではなかった。去年夏に熱中症で寝込んだ時に、母がご飯を食べさせながら「甘えん坊ね」と冗談めかして言ったら、「小さい時甘えたことがなかったから、甘えたいの」と母に言ったそうだ。お姉さんのほうがきれいで皆に可愛がられていたので、甘える隙がなかったそうだ。死化粧したらとてもきれいで上品になったそうだ。母が「きれいだね」と言ったら、無口で人を褒めない父が「ああ」ではなく「きれいだね」と言った。


一人っ子で両親は共働きだったので、同居する祖母の存在は大きかった。「目に入れても痛くない初孫」という可愛がられ方はされず、お年玉をもらうたびに「ケチ」と思ったのを覚えているが、母がいないときの母代わりになってくれた。それにもまして、私に大きな影響を与えたのは、教師として長年働き、年金で水泳や写真、英会話、鎌倉彫など多くの稽古事や年に2回の海外旅行を楽しむ、自分をしっかり持った生活だった。小学校のときにスキーやスケートの手ほどきをしてくれたのも祖母だ。私は、東京育ちで大正2年生まれのモガだった祖母の多趣味と美的センス、自立心をお手本に、人生を真剣に楽しむすべを受け継いだようだ。祖母が残した膨大な旅行アルバムや旅行記を見ていると、私の記録好きも遺伝かもしれないとも思う。長男と同居することで、私が将来もらう額よりはるかに潤沢な年金を趣味に費やすことができた時代が、祖母の生活スタイルを支えた大きな背景だとしても、自分がいる環境を目いっぱい自発的に楽しむという姿勢は、時代を問わずにお手本となっている。


5/3
父からメール
「通夜 7日 15時〜16時  告別式 8日 10時30分〜11じ30分 火葬12時〜約1時間
無理しなくても 良い」


ニューヨークフィルのオープンリハーサルに行くため休みを取っていたので、職場に電話して休暇の了解をとり、航空券を買う。JALが格安で手に入った。3月に休みを取ったばかりで、震災の募金以外に何ができるのかニューヨークで歯がゆかっただけに、日本にお金を落として復興に貢献できるのはうれしい。おばあちゃんありがとう。


リハーサルは、ベートーベンの「英雄」。2楽章は葬送行進曲だ。一人で旅行に行けなくなってからも、ニューヨークにまた行きたいといっていた、旅行好きなおばあちゃんに何よりのはなむけ。昨夜は、葬送に使われることもあるベートーベンの交響曲7番2楽章を聞いて、おばあちゃんをしのんだ。夫が隣に座って手を握ってくれた。手を握ると言えば、夫は祖母が手を握って歩いた最初で最後の男となった。私たちが結婚披露のため、2000年春に日本に行ったときと、1998年の9月に祖母と母がニューヨークに来たときのことだ。おばあちゃんのうれしそうな顔が忘れられない。


母と日程の確認の電話。父と一緒に、霊前に供える「枕団子」を作ったそうだ。


5/6
帰国。家に帰って、奥の部屋におばあちゃんがいないのは初めてだ。祖母の部屋で、祖母のベッドに寝る。私が3月に注文した電動ベッドで、1週間ほど前に介護用ベッドが来るまで使っていたもの。震災の前日に配達された時に撮った、上半身を起こしてピースサインをしている写真がある。


両親は二人とも、告別式に誰を呼ぶかについてのいさかいで相手に怒っていて、それぞれの言い分をわれ先に私に訴える。きちんとした葬式をしたいという思いは共通で、結局誤解だったのだが、普段から口数の少ない父とのコミュニケーションミスが、二人とも経験のない特別な状況で強調されてしまったらしい。私は、無口な父が待ちきれなかったように自分の言い分を私に語るのに驚きながらも「おばあちゃんは自分のことで言い争いしてるのうれしくないと思うよ」とあまり効果がないことを知りつつも仲裁を試みた。父は、もともとルールどおりに行かないと気がすまない性格で、家族にもそれを強要する人だ。でも、それだけでなく、祖母から「指名がないから」と実の母の看病をあまりせず、妻に任せてきたことの後悔から、いい式を出したいというプレッシャーがなおさら強くなっているのかなとも思った。夫の父親が死んだときに、子供たちがああすればよかったこうすればよかったと嘆いていたのを覚えているからだ。