おばあちゃんPart1

東日本大震災について、何と書いていいか分からなかった。911当時、気遣ってメールをくれた日本の友人に、避けがたい温度差を感じたのを覚えているせいもある。


95年にニューヨークに来るまで同居していた父方の祖母が、5月3日に亡くなった。98歳、苦しまずの大往生だった。葬式や遺品の整理をする中で祖母を思い出し、彼女の自分への影響を改めて感じた。祖母にとって良い供養になり、自分の気持ちの整理もしっかりできて、あらためて彼女にありがとうを何度も言った。普段は遠く離れている両親に対する理解も多少深まったようだ。


被災者の気持ちを100%理解するのは、当事者でない限り不可能だ。でも、死者を供養し、生者の気持ちを整理する死の儀式がきちんと行えないのは、どんなにつらいことだろう。津波にさらわれて遺体や遺品がなかったり、死者が多すぎてきちんと葬式ができなかったり。生き残った家族と死者について話すことも助けになるが、それすらかなわない人たちもいる。死は日常生活の一部だが、死が大量に一瞬に訪れ、きちんとした供養もできないというのは非日常である。


祖母は長年病気一つしなかったが、昨年夏に熱中症で倒れ、立ち直ったものの、今年の冬になってからは殆どベッドにいた。どこが悪いというわけではないが、何しろもうすぐ98歳だし、ずいぶん弱ってきているので、今のうちに会っておいたほうがいいと両親に言われ、2月20日から3月6日まで6年ぶりに帰国した。


2/21/2011
祖母は普段ベッドで食事しているが、起きて昼ごはんを食べるというので、窓際のソファに一緒に座って食べさせた。母がそのとき撮ってくれたのが、おばあちゃんとの最後の写真になった。動物のぬいぐるみが好きな祖母のためにニューヨークから買ってきたテディベアが間に座っている。まだ寒かったが、優しい陽射しがさんさんと照り注いでいた。


2/22
私が池袋に岡本喜八の7回忌特集上映を見に行っている間,午後4時ごろのこと。祖母が突然起きだし、隣の居間まで裸足でつかつかと歩いてきて「乗馬クラブの代金は払ったの?」と父に聞いた。あっけにとられる父と母。祖母は、夢まぼろしでなく実際に、最近乗馬に行ったと思っているようなのだ。戦前にお茶の水の女学生だったころ通ったお堀端で茶色の馬に乗り,一兵卒が横に付き添い、上等兵が手綱を握っている。どこからか「海ゆかば」が聞こえてくる。ギャロップはしなかったが気持ちよく走り,「体が軽くなった」と言っていた。が、料金未払いを心配していて、母に乗馬クラブに電話するように頼んだ。私が久しぶりに帰ってきたせいで、普段使っていない頭のスイッチが入ったのだろうか?


体が軽くなった後は、母が見守る中で風呂に一人で入った。さっぱりしたものが食べたいと言ったので、母がちらしずしを作ったが、殆ど手をつけなかった。いつもはベッドでうとうとしているが、半日ずっと横になったままテレビを見ていた。


風呂から上がった祖母と母の会話。
母:「私が年取っても、おばあちゃんのようにしっかりできないな。おばあちゃんは偉いね」
祖母:「あなたは誰に面倒を見てもらうの?素子(私の名前)?」
母:「おばあちゃんに見てもらいたいな」
祖母:「上から見てるかな」
母:「そうじゃなくて、降りてきて見てもらいたいな」
祖母:「老馬に乗って恩返しに訪ねてくる」
母は最初、老婆が老婆に乗ってどうするんだろうと思ったが、ロウバ違いで、馬のテーマが続いている。帰宅した私は、乗馬クラブの代金は三途の川の通行料なのか、あちらの世界を気持ちよく走ってきたのだろうかと母と話し合った。亡くなった人が出てきたかどうか聞いたが、あたりは夕暮れ時でうす暗く、周りの人の顔は分からなかったそうだ。


翌日朝。祖母は、母に乗馬クラブに電話したかどうかたずねた。祖母の部屋に来て肩を叩き、料金の催促をしたそうだ。一緒に乗馬クラブにいた父よりも、母の方がこういう対応がうまいからと母に電話をかけるよう再度頼んだ。昼には、馬のことは忘れてしまった。気持ちよかったことだけ覚えているそうだ。代金を払ったら、あちら側に行ってしまうのだろうか?


3/6
朝6時半の飛行機でニューヨークに戻るので、実家を3時半に出た。祖母は、テディベアと一緒に気持ちよさそうに寝ていた。


3/12
震災の翌朝になってやっと電話がつながった。本棚や食器棚の中の物が倒れ、人形のガラスケースが壊れただけで被害は何もなかった。祖母の部屋は何も落ちてくるものがないので、両親は一番安全といわれるトイレに逃げ込み、母は父にしがみついた。揺れがおさまってからおばあちゃんを見に行ったら、すやすやと寝ていた。


4/5
母が夜11時過ぎに電話してきて、そろそろ祖母が危ないかもしれないと言う。母は、義理の母である祖母と長年同居し、けんかもせず仲良く暮らしてきたが、自分自身も年老いてきた。寂しいようなほっとするような、私に話すのを週末まで待てないような気持ちの母。


昨日からおかしな言動が再び始まり,祖母は自ら「そろそろ」と言い出した。結婚前に祖母が先生をしていた千代田女学園の生徒数人が訪ねてきたそうだ。祖母は,家の外にいるらしい生徒たちに「お入りなさい」とかわいい声で話しかけている。生徒は歌っているが、この前の「海ゆかば」より下手。突然起き上がり、自分の部屋の隣にある風呂場脱衣所の扉を開けて、扉の外に生徒たちがいると言う。対応に困った母は、とりあえず今日は帰ってもらったと言うと、祖母は明日来るかどうかたずねた。


部屋の押し入れを突然開けて、寒いからとズボンを取りだした。ずっと寝ているのに必要ないと、母が説得してあきらめさせる。


食欲旺盛。お粥のようなものばかり食べていたので、うどんかラーメンが食べたいと言う。うどんだったら起きて食べなきゃねと母が言うと、起きて助けなしに食べる。食が細くなっているので、卵の黄身だけを落としたうどんを作ると、お代わりしそうなほど食べる。うどんを食べている最中に、母の頭上に蟻が見えると言う。蟻はうどんの中に入ったが、全部食べ、汁も飲みほした。熱いものを食べさせるのは大変なので、ぬるめのうどんだった。お客さん(=昨日の生徒たち)に出すうどんは熱くしてねと母に頼む。


他にも色々な人や物が見えているらしく、ずっと起きていて、一人でしゃべっている。来た生徒の名前を書くから、皮鞄の中の緑の手帳を出してくれと母に頼む。古い住所録も見ている。母が部屋にいるときは彼女を相手に、夫と別れた時のことなど(「俺の言うことが聞けないようなら別れるか?」)これまでしゃべらなかったことを延々と話す。向こうで夫に会ったら、知らん振りするそうだ。「ここがとってもお気に入りなの」と可愛い声で誰かに向かってしゃべっていることもある。どこのことなんだろう?


自分が死んだら、母はどうするのかと聞くから、葬式の事かと思ったら違う。父が殺人を犯したので、それにどう対処するかというのだ。殺人の動機や相手、時期は不明。
母:「そんなにお父さんのこと嫌い?」
祖母:「自分の子だから可愛い」
母:「じゃあなんで」
祖母:「だって事実だから」
祖母は、父が殺人を犯したくせに上機嫌で出かけるのが許せないと言う。裁判所に出かけたのかとたずねる。600万円で示談にならないかと突然言い出す。


母によると、いい顔をしている。頭だけ変。同時に、私が帰省した時よりもずいぶん弱っているとも。


翌日。今日は、生徒は来るかとたずねる祖母に困った母は、小田急が動いていないから来れなくなったけど、11日のお誕生日に来ると説明して納得させた。祖母はそれから何日振りかに大きなうんちをして、昨夜眠れなかった分まで眠り姫になっている。翌朝には、また今回のことも全て忘れてしまった。乗馬のことも忘れた。現在と過去、現実と虚構の行き来をこうやって繰り返しているうちに、そのうち、あちらに行ってしまうのだろか。私たちには見えないものが見える、別の世界についに行くのだとしたら、死がそれほど怖くないような気もしてくる。


4/28
母より、お待たせしました第3弾ですとのメール。またしても、一日中興奮状態で眠れなかったので、ムンクの絵のような寝顔で爆睡している。看護婦やヘルパー、医者が来るようになり、オムツと介護ベッドを使い始めてからのこと。


夜寝る前の話。おばあちゃんのお父さんが、大根やにんじんが入った野菜鍋を大鍋で煮ている。「ゴウノウ(豪農?)会」と称して、先生仲間に振舞うらしい。彼の出身地の長野県飯田だろうか?彼も祖母も教師をしていて、どちらの同僚かは不明。祖母は、鍋をかけているからふたをしてねと母に頼んで眠る。


翌朝も鍋の話が続いていて、学校の小遣いさんも呼ばなきゃと言い出す。
オムツ交換に疲れた母に、「疲れたなら寝ていきなさいよ。千葉から来たんでしょ」と自分のベッドをすすめる。両親と祖母は今の家を建てる前に千葉にいた。祖母をトイレに起こすのが大変で、母は腰を痛めた。祖母の足は弱ったが、手の力は衰えていないので、母は祖母に腰をたたいてと頼む。死にかけている寝たきりの98歳にマッサージを頼める母も、マッサージした祖母もどちらもすごい。美しくもおかしい信頼関係。


昼、母が看護婦に言われた買い物をして帰ってくると、「あなたは誰?」と言われ、「このうちの嫁です」と答える。やり取りしているうちに分かってきたらしく、母が「Who are you?」とたずねると、「分かってるわよー。I’m Yoshi」と自分の名を答えた。祖母は英会話を長年勉強していた。


先生仲間と山梨で飲み会をしたそうだ。みんなで騒いだので、警察や記者が来なかったかと母に聞く。


母とテニスをしたそうだ。「どっちが勝つかしら?」「そりゃおばあちゃんだ」と母は答えた。祖母は戦前、女学校時代にテニスをしていた生粋のモガ、母は田舎育ちでテニス経験はない。