ペルー旅行

これは、私と夫のエドが、2006年7月にペルーを訪れたときの記録である。ペルーに対してだけでなく、私たち夫婦の間でも、愛と憎しみを感じた旅だった。

       
7月1日: NY JFK空港−リマ
深夜出発の便は、朝1時頃というとんでもない時刻に夕食を出した。眠り続けよう、と夕食をとらなかったが、飲み物をサーブしている時に、隣の席の男に起こされる。ペルー人は24 hour party peopleなのだろうか、と不安になったが、プエルトリコ人であることが判明。。。


7月2日: リマ
朝6時にリマ到着。ピスコ・サワーを飲んで仮眠。日曜日の朝、ミラフローレス地域を歩く。 エキゾティックなサンディエゴのようだ。郊外にあるクリーンな中産階級の街、山と海岸に椰子の木。異国的なのは公園のタンゴ。大して格好良いわけでもない普通のカップルが素敵に見える。カフェでランチ。コーヒーはエスプレッソのようで美味しい。食べ物はまあまあ。豚肉と内蔵(?)、ひよこ豆のシチューに、辛い赤ピーマンとライスが添えてある。



ガイドにダウンタウンを案内してもらう。マヨール広場とサンフランシスコ修道院修道院の美しさと、その地下にあるカタコンベの何たるコントラスト! 中庭に面した廊下には、スペインのセビリアで1602年に作られたタイルが使われ、黄と青の色合いがベルリンのベルガモン博物館を思わせる。ムーア風の幾何的なデザインも美しい。階段の下に上からの光が直接差し込んでくるのは、雨が降らないリマならではの作り。天国へ向かうみたい。聖フランシス(?)の家系図を描いた絵。17 世紀に作られた図書室。


カタコンベには16世紀以来、25000人(?)が葬られ、後に大きさと形によって、膨大な骨が分類された。きれいに分類された骨や頭蓋骨と、ランダムに積み上げただけの元の状態を思い、どちらにも禅を感じた。この世のはかなさと、死んでしまえばみな一緒という感覚。地上が美しいだけに、地下とのコントラストは強い。




山の斜面に立つスラム街と、人気があまりなく見放されたダウンタウンの地域。リマには確かに、腐りかけた古い都市の美しさがあるが、また来たいとは思わない。


たくさん目についたもの。乗り合いバス(バンや小型バン)。観光客を見ると、切符を売る立ち乗りの男が声をかけてくる。Chifa(安い中華レストラン)。犬。死んだように道端で眠る犬。猫はクスコの近くとユカイ(両方黒猫。幸運のしるし!)、クスコ、アグアス・カリエンテスで数匹見かけただけ。ペルーは犬の国。毛並み悪くやせたのが多い。起きてる犬は人なつこい。


夕食は、ショッピングモールのファーストフードでセビーチェ、牛の心臓、ペルー産ビール。日本のラガーのようで美味しい。


7月3日: リマ−クスコ

空港への道路は朝のラッシュ。スクールガールの格好はアメリカや日本と一緒。チェックスカート、ハイソックス、学校のマーク付きセーター。ジャージの上下は日本の小学生のようだ。乗り合いバスを待っている人がたくさん目につく。歩いている人ももちろんいるのに、待ってる人が目につく。


クスコ大聖堂: 24Kと銀の祭壇。金ぴかだけど成金ぽくない。等身大に近い人形は辻村ジュサブロー製作のようだ。聖人たちの木彫りの一角は、素材がこげ茶色の杉だからか、ヒンズー教の神々を思わせる。


石のインカ遺跡サクサイワマンや太陽の寺院コリカンチャは、去年チチェン・イツァの巨大な石のピラミッドを見た後ではあまり感心せず。


街の中心アルマス広場にあるPapillon というレストランで夕食。典型的なペルーの食べ物。呼び込みに誘われて入ったが、値段もガイドにすすめられたところよりかなり安く、ヘルシーで美味しい。キヌアスープ(赤ピーマン、じゃがいも入り)、ラタトイユ(トマト、ズッキーニ、たまねぎなど)、チキンカバブ、ピスコサワー。


夕食後、一人で広場とホテルのあるサン・ブラス地区を歩く。スリが多いと聞いていたが、危なくない。道に迷うのも楽しい。スカーフ、小型の壁掛け、人形の帽子(赤ん坊用だと思ったら小さすぎ。何で買ってしまったかよく分からない)、コカ茶、 エドにチョコレート、クリスマスのオーナメント(ミュージシャンの天使二人と、困った顔がユーモラスな悪魔)。


クスコは好き。広場の周りとサン・ブラスしか歩けなかったし、売ってる物も、いかにものみやげ物か面白くない高級品か、いんちきアートみたいのが殆どだけど、自分の買い物には満足。コロニアル様式の美しいバルコニーと窓、プラハを思わせる迷宮のような狭い坂道も好き。高山病に効くといわれるコカ茶も。でも、エドはひどい高山病で死んでいる。頭痛、息苦しさ、吐き気、手足のしびれ。ツアーには参加したが、殆どバスの中にいて、夕食後タクシーでホテルに帰った。


7月4日: セイクリッド・バレー(聖なる谷)



チンチェロの村にある教会。石段を登っていく。金の祭壇は、クスコの後はいまいちだが、壁だけでなく天井や梁にまでびっしり書かれた、素朴で熱心な花、聖人などの壁画が素晴らしい。







坂道を行くアンデスの人々。ガイドブックの写真ほどうれしくない。あまりにも写真そのままだからだろうか。物売ろうとするし。


オリャンタイタンボ。また、全て石造りの段状インカ遺跡。


ピサック訪問は、自由貿易市場に反対するストのため、バスが走れず、中止になる。

エドは少しは回復したが、ランチ以外はずっとバスの中にいた。私は辛抱強くふるまい、彼の面倒を見た。マチュピチュでの二日目を犠牲にして、マチュピチュの後クスコに泊まらないよう、予定を変更するように、旅行社に頼みさえした。が、彼が回復するにつれ、悲しさにつつまれた。マチュピチュ訪問は、子供の頃からの私の夢だったから。私たちはけんかし、お互いを利己的だと非難した(結局、予定は変更されなかった。 ハイシーズンの電車の予約変更は難しいのが一番の理由)。


ユカイという小さな村に滞在。ほとんど何もなく、山と青空に囲まれたのどかな場所。ホテルは、子供たちが遊ぶ広場の前にある。夕食は、マスに小麦のリゾットとアルパカ肉。どれもチーズ味が濃すぎる。




7月5日: セイクリッド・バレー二日目


エドはさらに回復し、私はこの美しく静かな場所が好きになり始める。
自然と人の仕事、両方の驚異。ピサック遺跡と市場に行き、両方にとても満足する。段々畑と石造りの村の遺跡は、他の遺跡よりも人々がどうやって暮らしていたか分かりやすい。寺院、家、水道、儀式用の風呂、見張り台、天文台。 急な斜面を歩いた後は、屋台の甘ったるいインカ・コーラと、ポテトが添えられた濃い味付けのギニアピッグ (?) がおいしい。


市場も良かった。観光名所すぎず、クスコより品揃えも良い。



昼食は英語のメニューがないところを選び、満足。衣をつけて焼いたマス(エドはチキン)にトマトとポテトが添えてあって、たったの15ソル(1ドル=約3.23ソル)。猫と犬がテーブルに向かってくる。ここにはキャットフードというものは存在しない。とても攻撃的なしま猫は、大きな犬を食べ物から追い散らし、犬は後で私たちの皿から食べていた。気楽な二人だけのツアーで、今までで最高の日になった。ストに感謝! タクシーは往復で2時間の待ち時間を入れて80ソルだけ。ピサックとユカイの間の風景も絵のように平和だ。山、川、段々畑、牛、羊、青空、高い木。







ホテルに戻り、私は市場で買った果物を食べ、エドはルームサービスをオーダーして、アルパカ・バーガーにやられた。高山病が治りかけたと思ったら食中毒。。。ペルーは彼のことが嫌いみたいで、私はエドに理由もなく罰せられているようで悲しくなる。


7月6日:マチュ・ピチュ
朝 8:15(?)の列車でアグアス・カリエンテスへ行き、そこからバスに30分乗る。エドはマチュ・ピチュの入り口まで来たが、中にはトイレがないので断念。私は2.5 時間のツアーに参加したが、まあまあ。エドの病気が心配でも腹立たしくもあるし、ツアーの中で本当に感動するのも難しい。 ツアーの後、見張り小屋まで登って、私のマチュ・ピチュを発見した。見張り小屋からのマチュ・ピチュの眺めは、息をのむほど美しい。ガイドブックで最も馴染みのアングルなのに、私だけの宝物のような気がする。泣きそうになった。 ハム&チーズのサンドイッチ(またしても。。。)の昼食後、遺跡に戻り、ツアーで見たところ見なかったところを回る。最後にまた、見張り小屋に戻る。エドの具合が良くなっているといいなあ。


6-8歳の男の子がインカの衣装を着けて、マチュ・ピチュからアグアス・カリエンテスまでバスと競争。インカ道を駆け下りて、バスの隣に3回ほど現れ、バス停近くで乗り込んできて、歌を少し歌い、お金を要求した。かけっこはすごいが、お金をあげる気にはならなかった。学校は?公立の学校がないのか、さぼってるのか、どちらにしても気が滅入る。男の子の笑顔はとても明るかったけど。


7月6日:マチュ・ピチュ二日目
4:45に起きて、5:30のバスに乗り、日の出を見る。見張り小屋は遺跡の中で一番高い場所にあるので、昨日よりたくさんの人が小屋の近くにいた。6:30ごろ小屋に着いた。私の特等席 (遺跡に向かって小屋の左側にある石) はすでにとられていたが、近くの石に座れた。寒い。遺跡の左側に位置する山々の頂上はすでに明るい。光が徐々に降りてくる。7時を少しすぎた頃、太陽の輪郭が右手の山から徐々に見えてきて、マチュ・ピチュの背後の山、ワイナピチュの右上から明るくなりはじめる。その光がだんだん降りてきて、7:20ごろ太陽が山の上から完全に顔を出す。遺跡と山々、最高にゴージャスな日の出!遺跡に日が当たる瞬間自体は、期待したほど劇的ではなかったが、たちまち太陽の暖かさを感じてありがたく思った。日の出後に殆どの人たちは小屋から離れたが、私は離れがたく、8時ごろまでいた。小屋からの眺めは3度目だが、ただ美しく感動的、としか言いようがなく、目を離すことができない。






太陽が力を与えてくれたのか(?)、インカ道をハイキングすることにした。私だけのマチュ・ピチュを見つけた。遺跡を背にして、小屋の左側からインカ道が始まり、山の頂上まで通じている。下りの時に、上ってくるカップルとすれ違った以外は、誰もいなかった。 1.5 時間のハイキング・コースだが、往復2.5時間かけて頂上にはたどり着けなかった。でも気にならない。少なくとも5-6ヶ所からの素晴らしい眺めを味わった。遺跡を山とジャングルが囲むパノラマ (ジャングルの中にこんな遺跡があるなんてすごい)、遺跡だけ、ジャングルの木や植物(蘭、ユーカリなど)で部分的に覆われた遺跡の眺め、どれも素晴らしい。コンドルの目の眺めだ。 日の出のすぐ後にハイキングを始めたのは良い考えだった。徐々に体が太陽の光を吸収して、太陽が味方になる。 急に浴びるのは強すぎる光だ。頂上近くで太陽をより近くに感じて、ヨガの太陽礼拝を行い、感謝した。




信じられないほど素晴らしい風景を見ながら、下る。エドの絶え間ない病気に関しての不満はなくなり、また彼への愛を感じる。最後にもう一度、小屋からの眺めを味わう。エドはマチュ・ピチュに来れるほど回復しなかったが、この旅を実現させてくれ、一緒に旅をしてくれたことに感謝した。


ホテルの近くの温泉に行く。川の近くで、またしても登りだ。カーキ色の薬用湯はぬるめで、ハイキングの後に心地良い。山の眺めとのんびりした雰囲気を楽しむ。エドと昼食をとり、列車でクスコに戻る。エドはアルパカについてのジョークすら飛ばし、私はApocalypse(黙示録)をもじって “Alpacalypse” という言葉を作り、また一緒に笑うことが出来た。列車の中ではアルパカ・ファッションショウがあった(ショウの後で、もちろんセーター販売のワゴンが来る)が、クライマックスに向けての盛り上がりは今ひとつで、欧米人の拍手はどんどん少なくなっていった。


クスコでのエドの高山病は、心も薬も準備していたためか、今回は軽め。ホテルのカフェで夕食を取り、エドはアボカド・サラダで、最後にまた軽い食あたりに。私は、大聖堂の絵葉書を買いに、アルマス広場まで降りていく。やっとホテルまで迷わず歩けるようになったら、クスコともお別れ。

 
7月8-9日: クスコ−リマ−NY
最終日は移動で忙しい。
朝11時の飛行機でリマへ。ショッピング・ツアーをやめて、考古学博物館に行く。二人だけで過ごしたかったので、最初は旅行代理店の送迎を断ったが、追加料金を取るためでなく、純粋なもてなしの心による申し出と分かり、喜んで受けることにした。


博物館のインカ以前のコレクションは素晴らしい。特に、生き生きとしたディテールと色彩の織物と、大胆でリアル、ユーモラス、エロティックな陶製酒器など(モチェ、ナスカetc)の一群。




当然、インカのコレクションはもっとすごいのかと期待したら、がっかりだった。ショックのあまり、博物館の外で話しかけてきた子供たちともよく話せなかった。子供4-5人が近づいてきて、手のひらに私たちの名前と年齢を漢字で書くよう、頼みに来た。エドはなかなかうまく意思疎通し合い、楽しんでいた。外国人にとってはペルー=インカだが、インカも長いペルーの歴史の中の一文明にすぎないのだ。コロンバス以前の連続した豊かな歴史の一部であり、インカの工芸品だけが目立つことはない。インカ文明は短命だったし、インカ工芸品は他のリマの美術館にも散らばっているだろう。エドは線画をとても気に入り、後でナスカの本を数冊買った。


完璧には程遠いバケーションだったが、実際にしたことの内容よりも、楽しめる時間が持てることの方が大事だ。エドがまた楽しめるようになったのを見るのは楽しい。彼が回復するにつれ、お互いに対して良く思うようになり、それぞれの違いについてジョークが言えるようになった。


ミラフローレスにあるPunta Soalというシーフード・レストランで夕食。

海岸沿いの、キスをしているカップルの巨大彫刻の近く。私はミックス・セビーチェ(すずき、えび、いか、たこにヤム芋とコーン。28ソル)を、エドは焼きカレイを頼む。セビーチェはおいしかったが、最初の夜食べたファーストフードのに比べて、ほっぺたが落ちるほどではない。それでも、最後の夜にまともなレストランで食事をして満足した。歩いてホテルに戻る。リマを歩くのにも慣れてきた(気のきいた本屋を見つけ、エドはナスカの本を買う)。


ペルーに向かう飛行機の席は離れ離れで、戻りは一緒なのは象徴的だ。大ゲンカして仲直りするために、5000ドルも払ったようなもんだ。でも、お金じゃ、こんなセラピーは買えないもんね。エドがほんとに具合が悪い時は優しくできたが、彼が回復するにつれて、ケンカの繰り返しだった。 私は、今まで辛抱強くなるよう努力してきて、お互いがより自立し、尊敬しあうことで、お互いへの許容力を高めてきた。 でも、一つのユニットとして行動しなければならない旅行中は、普段以上に彼の病気は私の病気であり、しんどい。それでも何とか、私たちは結婚生活という試験にパスしたようだ。 最高点ではないかもしれないが、点をつけるのは他でもない私たちだけだ。


また深夜出発の便でNYへ。空港使用料はペルーの物価に比べ30ドルと非常に高く、旅行代理店は間違った金額を教えた。でも、家に帰る喜びの方が、腹立たしさよりはるかに上だ。疲れきったし、猫たちにも会いたい。


まだ病気したりないのか、エドは家に帰ってからすぐに、おでこを街灯にぶつけ、たんこぶを作った。 行きつけのダイナー 7Aでは、すぐにいっぱいの氷を持ってきてくれた。ペルーでは長いこと待たされて、 氷たった一つかもしれない。戻ってきてしばらくは、公衆便所に備え付けられた、沢山のペーパータオル(ハンドドライヤーも!)にも感動した。とはいえ、アメリカでは物が過剰すぎ、無駄遣いされすぎているのだけど。

(終)