The Namesake その名にちなんで


アメリカ移民の子の名前は、民族性を表したものと、アメリカ風のものと両方のケースがあり、一人で両方使い分けることもある(例:中国名とアメリカ風の名前ジョンなど)。どちらが良い悪いではなく、民族としてのアイデンティティと移民先社会への同化のバランスは家族ごと、また家族の中でも一人一人違い、経験によって自分で見つけていくものだ。

インド系なのに、父親の好きなロシアの作家ゴーゴリ(英語読みだとゴゴール)という名前をつけられた移民の息子は、その名前に葛藤する。列車の中でゴゴールの本を読んでいる時に事故に遭い、奇跡的に生き延びた父親は、インドと違い、アメリカでは新生児は名前がないと病院を出られない、と聞き、とっさに生まれたばかりの息子をゴゴールと呼んでしまったのだ。単なる伝統と同化の対立だけでなく、よりグローバルな要素が入っていて、自分は誰なのか悩む二世の存在を象徴している名前だ。

カルカッタからNYに移住し、アメリカ社会に同化しながらも、郊外のインド人コミュニティーの一員となり、伝統を保とうとする両親。息子は、幼稚園で正式名のニキルで呼ばれることを拒否し、大学に進む際にはアメリカ社会にもっと溶け込みたくて、ゴゴールという名を捨て、ニキルになる(愛称はニック)。が、彼が建築家になることを決めたのは、タージ・マハルを見たのがきっかけ、というように、親=伝統と子=同化の対立という単純な図式でなく、家族の間でも各個人の中でも、二つの要素のバランスが有機的に変わり続けるので、物語が生き生きしている。

インド生まれのミーラー・ナーイル監督によるアメリカ映画で、描写に実感がこもっている。日本で育ちNY在住12年で、中国移民の二世と結婚している私は、日本人としてのアイデンティティと同化のバランスにいまだ悪戦苦闘中で、両世代の気持ちが分かるので、父と息子がちゃんと血がつながって見える家族のドラマに泣いた。息子役のカル・ペン(「Harold & Kumar Go to White Castle」も好演。

移住直後はホームシックになり、家族の中でいちばんアメリカ化していない母は、夫の死後一人でインドに帰り、母国の伝統的な歌を再び歌い始める。伝統に支えられた人間は自由になれる、というメッセージを体現していると同時に、娘のボーイフレンドに対し、良い人だからインド人でなくてもかまわない、と語る。まだ20代らしい息子が、インド系アメリカ人としてのアイデンティティのバランスを模索している途中で終わるのが、希望を残しつつリアルだ。イエール大学を出てNYで建築家として働く彼は、典型的なWASPの彼女と付き合うが、うまくいかず、かといって、同じベンガル地方出身の両親を持つ二世も、彼と同じくらい、自分が誰だか分からないのだ。

ちなみに、アメリカに定住している日本人は、増えたとはいえチャイニーズやコリアンなどに比べたら数も少なく、結束の度合いも弱い。日本人としてのアイデンティティが弱くなるが、かといってアメリカ人になりきれない葛藤に悩むか、またはホームシックになって結局日本に帰るかの二パターンに分けられる気がする。