ビデオ日記


Haxan 魔女
サーカスの見世物や石井輝男の映画を思わせるような、魔女裁判に使われた拷問器具の詳細がある一方で、知的好奇心も満たせるエンターテイメント。魔女の歴史を描いた、1922年のスウェーデンの無声ドキュメンタリー映画だが、脚色して演じられている場面も多数。魔女狩りは現在にも通じる、規範から外れたものに対する仲間はずれであり、魔女とされた女たちや集団悪魔つき状態の修道女はヒステリー患者の行動と共通点を示す。地獄や病気への不安と恐れ、猜疑に満ちた中世、魔女狩りにあった女に罪深い思いを抱く若く美しい僧を、年上の僧が鞭打つ光景は妙にエロティックだ。つまり、良いセックスができる状態にあれば魔女は生まれず、欲求不満の僧たちによる魔女裁判も起こらない。地獄と悪魔を恐れる人間の心が魔女を生み、悪魔はセックスの象徴でもあり、魔女は男に利用されるように悪魔に利用されている。

The Seventh Seal 第七の封印
魔女の次は死。歴史的事実関係は正確ではないものの、疫病や死への恐怖ゆえの魔女狩りに十字軍、社会のアウトサイダーである旅役者、と当時の社会全体の雰囲気が伝わってくると同時に、人間の本質が今も変わっていないという歴史の流れを感じさせる名作。キリスト教の長い歴史の中で描かれる神の沈黙には説得力がある。

Satanis, The Devil’s Mass
サンフランシスコにある(1969年当時)Church of Satanのドキュメンタリー。悪魔崇拝といっても動物を殺して供えたりするわけではなくて、人間が肉欲によって動かされている存在であることとその罪を認めた上で人生を楽しむ、キリスト教同様に行動規範としての宗教であることが分かる。彼らの儀式は、初めはキリスト教のパロディのように見えるが、目が慣れていくにつれて、儀式性も情熱の程度も、普通の教会と変わらないように見えた。悪魔は堕天使であり、悪魔崇拝キリスト教の一部、影であるとも言える。が、現実的で快楽を追求する個人主義者である彼らは、死後の世界を信じないと言いながら、礼拝では天国と地獄と言う言葉が使われているのは納得がいかない。原理主義的に悪魔を信じているわけではないから、地獄が文字通り存在してなくてもかまわないってことか。おまけについている60年代後期−70年代のオカルト&グロ映画の予告編とsexploitation映画雑誌の表紙コレクションがなかなか笑わせてくれる。
Church of Satanは、今読んでいるウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」にも名前が出てくる。しかし、フーコーの振り子ってのは不思議な存在だ。振り子のゆれは地球の自転とともに動くが、振り子が釣られている点は動かない。とはいえ、地球に存在する以上動いているので、いわば地球の自転を証明するための想像上の点である。想像上の点であるから、どこにあっても良く、世界中いろんなところにフーコーの振り子がある。どこにでもあるが、見えない、神のような存在。地球全体が宇宙の見えない点から釣られた振り子のような気さえしてくる。

Koyaanisqatsi コヤニスカッツィ
工業に支えられた都会と大自然の対立を黙示録的に描くが、いかにもニューエイジな「工業文明に警鐘を鳴らす」的シンプルなアプローチが眠気を誘う。87分でなく30分で表現できる内容だが、音楽はミニマリズムフィリップ・グラスとくれば、展開の遅さは保証済み。人間も工業製品のようになっているという作品中の批判そのままに、モンタージュ的な映像は都会の中で暮らす人々の個性を感じさせない。映像は非常に美しいが、映画を引っ張るのは美よりも、物語と役者や監督の個性だ。「不都合な真実」が受けたのはゴアという一人の人間が語りかけているからだし、似たような物語の映画を見ても飽きないのは人間が一人一人違っているからだ。

Black Orpheus 黒いオルフェ
絵とジョビンの音楽は素晴らしいが、物語は脇役のほうが生き生きしていて、主人公のオルフェ&ユーリディスには共感できない。美人でセクシーな婚約者がいるのに、美人度は高くてもしょんべん垂れみたいな格好のユーリディスと恋に落ちるオルフェは、婚約者に対してあんまりな態度でただの迷惑なヤツ、報いを受けて当然だ。天上の恋には縁のない私には、婚約者やユーリディスの従姉との方が、地上的な恋愛が楽しめそうだ。

The Whales of August 八月の鯨
日本で公開されたときは感動した覚えがあるが、見直したら全体的にはがっかり。字幕を読まなくて良いことと、自分が年をとったせいで、細部が身にしみたりする場面は割りとあったが(「掃除してもしても埃がたまる」というリリアン・ギッシュの台詞に、月日の流れとその中にいて日々の生活をおくりながら老いていく人間を見た)せっかくのベティ・デイビス(当時94歳!)とギッシュの名演は、演出が平凡でなければ、もっと生きてきただろう。作品の詩的さを生かしながら、もっと鋭さも深みも出せたと思う。年をとって動きが鈍くなっても、感情はそうではないのだもの。監督は「If…」を撮ったリンゼイ・アンダーソンだが、詩的と可愛いをはき違えているようだ。


モスラ対ゴジラ
ゴジラ映画の中でも傑作のうちのひとつ。1964年作。音楽も素晴らしく、ザ・ピーナッツが泉の淵で歌う哀しげな歌は、映画史上最高に美しい歌の場面の一つだと思う。絵的にもはっとさせられる箇所がたくさんある。社会的メッセージが娯楽としっかり両立した時代の作品。突っ込みどころも沢山あるが、それもいとおしい。

生きる
後半の葬式&フラッシュバックが長すぎるが、それなしではただの寓話になってしまい、全部切ってしまった方が良いとは思わない。黒澤の侍物に比べてまとまりは悪いが、色々考えさせられる。志村喬が一本調子でリズムの外れた「ゴンドラの歌」を歌い、酒場中が自らの命のはかなさを感じて凍る場面と、地元のおかみさんたちが焼香しながらオンオン泣く場面が特に印象的。役所の同僚たちは、死ぬ間際に公園を作った志村喬の功績に泥を塗るような勝手なことをいうが、獣のような涙は真実を告げ、場違いな赤ん坊の泣き声も死と対照にカオス的で、生きるってのはこういうことだと思わせる。しかし、誇張されてるとはいえ、日本の通夜って酒が入るとこんなに無礼講だっけか?メフィストフェレス的な伊藤雄之助の小説家はもう少し見たかった。酒と女、ギャンブルに溺れるのは自分ではない、と思う展開なので、物語のバランス的には正解だが。

用心棒
見れば見るほど「日本映画」らしくない、この作品が影響を受けた作品と、この作品が影響を与えた作品が浮かんでくる通り道のような、飛び切り面白い無国籍映画だ。三船仲代(仲代が階段を上る足がセクシー!)はいうまでもなく、東野栄治郎、沢村いき雄、藤原釜足など脇役の一人一人に、見れば見るほど愛着がわいてくる。50−60年代の東宝映画を見る楽しみの一つはこれらの名脇役で、色々な作品にそれぞれの役で出ている彼らを見るのは、古い知り合いに会うようだ。

椿三十郎
「用心棒」より日本映画らしい。金魚のフン、奥方、押入れなど個々のギャグは、用心棒よりおかしくて忘れがたいが、全体としての出来とインパクト、爽快度は「用心棒」にかなわない。ここでは伊藤雄之助は結末だけの出演だが、どんな容貌なのか気を持たせるおいしい役で、容貌も役柄に合わせ、普段よりアクの強さを殺している。

斬る!
「用心棒」「三十郎」とくると必ず見たくなるのが、岡本喜八のこの作品。原作は「三十郎」と同じ山本周五郎で、舞台設定と無国籍さは「用心棒」に、筋は「三十郎」に近い。1968年制作で、この二作を初めとするチャンバラ映画のあらゆる要素をパロディ化し、「用心棒」が影響を与えたマカロニウエスタンも取り込んだ上での、岡本監督独自の楽しい作品。佐藤勝の音楽が「用心棒」を思わせるフレーズの上にモリコーネ調の音をかぶせていることからも、確信犯的パロディであることが分かる。

大菩薩峠
つかみどころのない仲代達矢の魅力が最大限に引き出された作品。彼の作品をいくつか見直してから見ると、より楽しめる。役者である前にスターである三船には出来ない役だし、丹波哲郎だとほんとに何もない虚無になりそうだが(別の解釈として面白いが)仲代が演じる机竜之介の虚無は、すべてを経験した上での虚無だ(雷蔵など他の竜之介は見てない)。しつこいようだが、仲代達矢の足が良い。

日本のいちばん長い日
終戦物というよりは、おいしいオヤジ顔のアルバムとしてみる方が楽しめる。戦後15年しかたっていない東宝での制作としては、これが限界だったのだろうが、善人の天皇に責任はなく、陸軍若手のみを突出したキチガイのように描き、その一方で陸軍大臣役に三船を起用してその埋め合わせをしているかのような気持ち悪いバランス感覚。声が裏返ってる陸軍若手だけでなく、終戦を決定する決断を下して涙する天皇と共に泣く大臣たち、切腹する陸軍大臣(反乱の後始末をせずに自分だけ死ぬのは無責任)、みんな狂ってる。岡本喜八は集団狂気を描くのに最適の監督で退屈はしないが、題材そのままに少々長すぎる。むしろ、8月14日に出撃する特攻隊を見送る伊藤雄之助や、陸軍の反乱将校の自殺死体に玉音放送君が代がかぶさる、といった短いカットの方が、強烈な印象を残す。
それにしても、日本の外交はこのときからなっちゃいない。鈴木首相の「ポツダム宣言黙殺」失言(今でも政治家の失言癖は変わらず)が積極的な拒否、と誤訳されて海外メディアに伝わり、堂々巡りの会議に加えて、原爆投下に拍車をかけた。連合軍側メディアの確信犯的な誤訳だったかもしれないが、利用されるネタを提供するのは政治家として二流。その上、天皇と日本国体が連合軍の司令下に置かれることについての解釈(subject to)でもめ、陸軍大臣は連合国側に再度確認を迫る。なんだか子供のお使いみたいだ。スパイはいないのか。ポツダム宣言受諾の電報を連合国側に打つのも、スイスとスウェーデンを通してだ。中立国を通す意図は分かるが、交戦中であれど、秘密の交信ルートは確保してなかったのだろうか、と国交断絶の建前と本音を使い分けられない子供っぽさの方が気になる。

恐喝こそわが人生
チンピラの青春の栄光と挫折物で結末は見えているが、松方弘樹と佐藤友美が何とも言えずチャーミング。この頃(1968年)の松方の現代物にはおかしさだけでなく可愛さもある。「東京流れ者」の口笛が清順の映画ほどではないが、全編を通して繰り返し流れる(音楽監督は「東京流れ者」と同じ鏑木創)。少ししか出ない丹波哲郎は毎度のことだが、天地茂の金歯の殺し屋も強烈。
深作欣二のインタビューが本編よりも面白い。ほんとにこの人は分析的で、映画を歴史の中でとらえる視点で、スコセッシみたいなしゃべりだ。影響を受けた映画と当時の社会状況、松竹(これは松竹制作)と東映の比較など。深作欣二ヨーロッパ映画はあまり結びつかないように見えるが、少年犯罪が多くハッピーエンドでない時代に育ったので、アメリカではなくヨーロッパ映画に影響を受け、自分の映画作りにもその精神が生きている、と語る。たしかに60年代の松竹はいちばんヌーベルバーグな会社だったし(佐藤友美の格好もそれ風)思想的にはいちばん何でもありで、この作品のように挫折の物語でもゴーサインが出た。

ねじ式
本編と何の関係もなく、裸の女たちがうごめくオープニング&エンディングといい、石井輝男の「ねじ式」として楽しめる。あのシュール極まりない原作を忠実に映画化しても無意味だろうし。丹波大家のアパート、住んでみたい。