華麗なるギャッビー

「華麗なるギャッビー」は華麗かもしれないが、グレートではなかった。とすると。邦題のほうが本質を突いているのかな。でも、現代の皮肉はなくなるな。ともかく、ギャッビーは、内面の空虚さを埋めるために、世界の終わりみたいに毎日パーティーしてるんだが、映画自体も空虚だった。空虚さは映画には向かない主題だけど、パーティー場面がエネルギーにあふれてたら、それと対照的に空虚さを際立たせることも出来たし、「緑の灯」もほろ苦く甘い感動を呼んだと思う。

しかし、パーティー場面は、大晦日タイムズスクエアのカウントダウンをTVで見ているような、大勢の人がいて、いろんな事が起きているのに、離れたところから見ている印象だった。「ムーラン・ルージュ」と違って、音楽や忙しいカメラワークがパーティー場面のエネルギーを引き出すのに役立っていない。プロデューサーの一人であるJay-Zが作曲と制作に参加しているのにもかかわらず、良質なヒップホップですらなく、BGM的。

3Dは「華麗な」デザインの細部を楽しむ邪魔になり、ほとんどの場面で意味なし。キャリー・マリガンはミスキャスト。ディカプリオは主演の中では一番よかったし、彼のファンなら楽しめると思うが、描かれる人間関係の中で唯一説得力があったのは、トビー・マグワイアとの間の同性愛的感情のみだった。