井上靖作品集

自分の趣味にはちと良識的すぎるような気がして敬遠していた井上靖作品だけど、職場に文学全集があったので読んでみたらこれが面白いのよ。阪神間の上流家庭の恋愛のどろどろを端正に描いた初期の「猟銃」や、実の母のボケが進行していく様子を絶妙な距離感で精確に描く「花の下」「月の光」。特に、過去と現在を行き来する魂が透き通って見えるような「月の光」にはうならされた。

そして、圧巻なのが「おろしあ国酔夢譚」。映画を見なくてよかったとつくづく思った。このスケールの大きさは映画では無理。ロシアに漂着した大黒屋光太夫と部下の船乗りたちが日本に帰るまでを描くが、物語の面白さもさることながら、光太夫の意志の強さと知性、視野の広さと男っぷりに惚れた。鎖国中の江戸時代の人とは信じられない。押しかけ嫁したいっ!

太夫は過酷な気候のロシアで生き抜き、故国に帰る意志を貫くために、ロシア見聞記を毎日書き始める。絵を勉強したわけではないが、記録として見たままに描き始めるなんてのは人ごととは思えない。やっと帰国が決まり、世話になったロシアと鎖国中の故国の両方に人間的に気を配りつつ、自分の保身を図っている。国益なんて言葉はどこにも出てこないが、彼のような人こそ外交官になるべき。