オスカー、「善き人のためのソナタ」


オスカーはスコセッシご苦労さんの年だった。

それに引き換え、モリコーネのオスカー名誉賞のプレゼンは手抜き。 セリーヌ・ディオンモリコーネ・トリビュート・アルバムの中の新曲を歌ったが、特に旬の人でもないディオンより、モリコーネに有名なナンバーを指揮させるべきだった(モリコーネは2月3日にラジオシティ・ミュージックホールでコンサートを行った)。

モリコーネは手抜きプレゼンに加えて、候補者と離れたバルコニー席に座らされていた。国際的バラエティに富んだ候補者の顔ぶれ、と自画自賛しながらも、所詮アカデミー賞はハリウッドの内輪のお祭りで、よそ者には冷たい偽善的な態度が感じられた。モリコーネは英語をしゃべれず、アメリカ的にフレンドリーな人でないのも画面から分かるが、それを抱擁する暖かさがほしかった。

渡辺謙の英語は通じるけど、まだまだ英語の顔面筋肉発達が必要。顔ひきつってたもの。 練習と経験のみだ。がんばれ。

外国映画賞をとった「善き人のためのソナタ(The Lives of Others)」は政治スリラーとしては非常に面白いが、人間ドラマとしてはいまひとつ。やはり作品賞の候補に挙がっていた「パンズ・ラビリンス」の方が完成度が高い。1984年の東ベルリン、シュタージ(秘密警察)に属する孤独な男ヴィースラーは人気劇作家のアパートを盗聴するが、作家の反体制的な活動を密告せず、偽りの報告を行う。私の善い人度が足りないのかもしれないが、なぜ彼をちくらないのか、劇作家の私生活を聞いているうちに愛着がわいてきた、題名となっている曲を聴いて感動した、共産主義の実態に幻滅した、という理由はあからさまとしても、どうも肌で実感できない。

劇作家の恋人は監視を命じた高級官僚ともできていて、密告により、高級官僚はライバルを蹴落とそうとし、ヴィースラーの上司は出世しようとする、という仕組みは、いかにも東ドイツであったことのように思われる。劇作家は東ドイツ批判を西の雑誌に発表し、監視される側と監視する側が、お互いを出し抜きあう様子は、真に迫っていてスリリングだ。

一番驚いたのは、ベルリンの壁崩壊以降、自分を密告した秘密警察員の名前とレポートを閲覧できることだ。一般市民の協力を得て、人口の3分の一をシュタージが監視していたため、重罪人は裁かれたとしても、全員を裁くのは不可能だろう。上に責任を押し付けて自分たちの責任は無視するという態度ではなく、一般市民が犯した罪とともに生きていくという姿勢がすごい。

邦題は物語の鍵となる、映画のために作曲された曲からとっているが、ウエットに響きすぎて、英語題のように原題からの直訳で「他人の生活」とした方が、作品の距離を置いた人間の描き方に合っていると思う。