Duck Soup@MOMA, Tonic閉店とマーク・リボ逮捕、スパイダーマン2 再見

 

土曜の午後は、マルクス兄弟の「Duck Soup (我輩はカモである)」をMOMAに見にいく。大画面で見るのは初めてで、自分が持っているDVDより画質も音も悪いが、堪能した(軽く数十年たっていそうなプリントで、お金持ちのMOMAでも、そうでない部門もあるということか)。

何度も見ているのに、他の人の笑い声を聞きながら自分も笑ったり、気づかなかったグルーチョのギャグを発見したり(何しろ、口を開けば殆どギャグ)するだけでなく、作品の歴史的な位置づけも、家で見るよりはっきりする。1933年という時代の雰囲気が感じられるのと同時に、ハーポのギャグに小さな子供でも笑っている、という事実にうれしくなる。映画史的には例えば、グルーチョ演じるファイアフライ大統領が登場する場面は、「プロデューサーズ」の劇中劇のクライマックスのばかばかしさに似てるな、とか。

マルクス4兄弟揃ってのミュージカルナンバーがある唯一の作品で、ばかばかしくて楽しくて、鋭い風刺の効いた、戦争に向かうときの歌は、彼らの作品だけに限らずミュージカル映画のパフォーマンスの中で、私の一番のお気に入りだ。見終わった後も、おバカな振り付けを真似して歌いながら、道を歩きたくなる。グルーチョの仮装をしている人がいたら、つけようと思って、パーティーショップでヒゲめがねを調達したが、誰もつけてなかったので、家で写真を撮る。ちなみに、ヒゲめがねは英語ではGroucho glassといい、マルクス兄弟が現在使われているギャグの元ネタとなっている例だ。

ロウワーイーストサイドで9年間、実験・前衛音楽演奏のために場所を提供してきたTonicは、高騰した家賃が払えなくなり、金曜の夜、ジョン・ゾーンの演奏を最後に閉店した。

クラブの移り変わりはいつでもあるが、ビジネスマンのブルームバーグが市長になってから、売れ線でない音楽や有名でないミュージシャンを支援するマンハッタンのクラブの閉店に加速度がついたようだ。CBGBだけでなくContinental やSin-eなども閉店し、Tonicは実験・前衛音楽を支援するキャパ90以上の最後のクラブだった(ニッティングファクトリーは売れ筋の音楽に路線変更し、ゾーンが支援するStoneは50人ぐらいしか入れない)。家賃の安かったイーストビレッジやロウアーイーストサイドに、高級コンドミニアムやブティックが立ち並び、家賃が上がり、ミュージシャンやクラブはブルックリンへと流れている傾向の一部である。

ミュージシャンのマーク・リボらはTonic閉店に抗議し、ヨーロッパのようにNY市が文化保護のために介入して、滞納家賃を帳消しにするか、代わりの場所を提供することを主張している。土曜日11時から、抗議のための演奏がTonic で行われた。MOMAの帰りに4時ごろ立ち寄ったら、すでに観客はクラブから追い出され、道端にたまっていて、クラブではリボとレベッカ・ムーアが警官数名を前に淡々と演奏していた(家主のものとなってしまったクラブ内で演奏することは非合法)。ついに目の前で、ステージ上のリボとムーアが手錠をかけられ、警察の車に乗せられていった。一般市民がデモで逮捕されるのを見るのは初めてではないが、ミュージシャンが音楽を演奏していて逮捕されるのを見るのは初めてで、ショッキングだった。クラブから出てきたリボとムーアを、道端の人々は拍手と歓声で迎えた。
Tonicおよび、NYの音楽文化の多様性を守るための署名はこちらから(写真も)。
http://www.takeittothebridge.com

夜は、来月初めの「スパイダーマン3」の公開に備えて、二作目を見直した。見直して気がついたこと。

ピーター・パーカー=スパイダーマンであることがメリージェーン(MJ)に発覚し、二人が結ばれるのは、「スーパーマン」や「バットマン」など他のスーパーヒーロー物には見られないユニークさ。

一作目はスーパーヒーローとしての能力とそれに伴う義務について、二作目はそれを踏まえた上で、義務と欲望との両立、というより現実的な大人の課題が、スパイダーマンに課せられる。自分が本当にしたいことを探す、つまりアイデンティティの模索も描かれ、青年の自分探し、仕事か家庭かの両立に悩む女性など、さまざまな人による多様な解釈と感情移入を可能にしている。愛するMJを救わなければいけなくなった時に、スパイダーマンとピーター・パーカーであることの両立という、アイデンティティ危機から脱する。精液の象徴である蜘蛛の糸も復活し、義務と欲望の両立が自然に成功したことを示している。男性観客にカタルシスを与えるのは当然だが、女が見ても、欲望の充足という子供っぽい開放感と大人の義務が両方達成されるのを見るのは気持ちがいい。

蜘蛛の糸=精液以外にも、いろいろな性的要素やなじみのあるクリシェが巧みに組み合わされ、幅広い共感をよぶ作りになっている。列車事故を防いでから乗客にかつぎ上げられる場面はキリストの復活(ロックコンサートのようでもある)を思わせるし、ハリーのピーターに対する同性愛的片思いも見られる。ピーターは処女妻か眠れる美女のように縛られてハリーの元に届けられ、二人の正面対決があると思いきや、じらされ、一人残されたハリーはナイフ=ペニスを一人でもてあそぶ。

こういった精神分析的なことを考えて脚本が書かれたとは思わないが、原作の人気やアクションだけでなく、多様な解釈を許す懐の深さも大ヒットの原因なのだろう。