Spidr-Man 3 スパイダーマン3

金のかかったアクションもドラマも楽しめたが、1,2作目より質が落ちる。

おたく青年ピーター・パーカーとスパイダーマンとしてのアイデンティティの葛藤を通し、一作目はスーパーヒーローとしての義務、二作目は人生の選択、とノーブルなテーマを描いてきたが、ピーター&MJ&ハリーのバイ三角関係を含む昼ドラのレベルに落ちてしまった。観客は、自分たちと同じか、それよりかっこ悪いピーターのスーパーヒーローとしての葛藤に共感し、その活躍にスカッとするわけだが、これではカタルシスが味わえない。

ユーモアも、ピーターのダンス場面で見られるように、ユーモラスというよりは子供っぽくばかばかしい捨て身な笑いで、作品のレベル維持の苦労が見えるようだ。ドラマ的にあれこれ描きすぎて、選択の自由というテーマでくくったものの、焦点がぼけている。スパイダーマンの敵もサンドマン、ヴェノムと数は増えたが、前二作の敵役に比べ印象が薄い。

実際のNYの風景とCG、NY以外のロケを巧みに組み合わせたバーチャルNYを一作目から楽しんできたが、この作品に登場する実際のNYの風景はより分かりやすいものが多く、微妙さが薄れているのも作品の子供っぽさを表しているようだ。タイムズスクエア、劇場街、ミッドタウンのヒルトンホテル近辺など、それはそれで楽しいのだが。

公開直後の月曜夜、ブルックリンのダウンタウンにある劇場の観客は土地柄か、家族連れを含む黒人が6割以上。劇場でのリアクション:ハリー&MJのキスにはブーイング、ハリーがMJと付き合っているとピーターに告げる場面、およびこの三人が登場する一番大事な場面は、スターウォーズ2のアナキン&パドメのからみの場面で起きたような失笑を買っていた(ジェームス・フランコは悪くない役者だと思うが、ニコラス・ケイジが監督した最低まじめ映画「ソニー」の影がちらつくのは気の毒)。

二作目から伏線を張っていた、ハリーとピーターの間の同性愛的主題が花開く。前作には登場しなかった執事が突然現れて、ハリーの父=グリーンゴブリンの死の真相を明かし、親子への愛を打ち明けるのもその主題を強調している。執事は、話の展開のためのデバイスとして使われているが、いかにも唐突な登場で、「バットマン」を見ているような錯覚を起こさせる(執事が"I loved your father as I have loved you, too"と言う、この場面で「ブロークバック(マウンテン)!」と叫んだ観客がいて、場内爆笑になったという劇場もあった、とウェッブの掲示板で読んだ)。

脚本の不自然さと下手さは、MJがウェイトレスとして働くジャズクラブにタクシーで出勤する場面にも現れている。ウェイトレスは地下鉄で出勤するのが、普通のニューヨーカーの生活感覚で、いかにもハリウッドで書かれた脚本に違和感を覚えた。脚本家も不自然さを分かっていると見え、MJにウェイトレスの制服を着せて、不自然さの上塗りをしていたが。話を展開させるための道具立てであることが見え見えで、公共機関を利用していて危機に陥った一般市民を助けるスパイダーマン、という子供が大喜びする図式を繰り返すためだということも見えてしまう。

さらにキルスティン・ダンストについての細かい突っ込み:ラストでピーターに手を差しのべる場面は、腕の産毛が気になる。こういう細部が気にならないよう、もっと楽しませてほしかった、というより普通のOLがレーザー脱毛を行う時代に、腕の毛ぐらい剃らないのか?歌は本当に下手なのが悲しい。

フレンチレストランの支配人役で登場するブルース・キャンベルと、デイリー・ビューグル社の社員役テッド・ライミ(サム・ライミの弟)の場面は、三作中で一番セリフも多く面白かった。「死霊のはらわた」やTVの「ジーナ」でカルト的人気はあっても、B級監督だったライミを支えてきた人たちに脚光が当たるのはうれしい。

おたくのピーターがかっこよく変身するとゴスになり(とはいえ、普通のかっこよさからはずれているのが、おたくがおたくたるゆえん)、シュワルツネッガーみたいな外見のサンドマンには繊細さがある、というひねりは興味深い。