フラガール


フラガール」をビデオで見た。
この作品の日本での評価の高さとその内容から、映画感想のブログなどを読んでいても感じる「日本人の人の良さ」を改めて感じた。確かに感動的ではあるが、お涙頂戴の意図が露骨だし、その手の場面も長すぎる。正直言って、少しうるっときかけた箇所もあるが、泣きを助長するための音楽といい、泣いたら恥ずかしいと思わせるような臆面のなさだ。

フラガールになる炭鉱娘たちを演じる役者たちは、映画のためにダンスの特訓を受け、素人が一人前のダンサーになっていく役柄と重なって感動を呼ぶわけだ。が、ミュージシャンである私は、ごり押しお涙頂戴演出への反感からか、先生役の松雪泰子が最初に言ったように、素質のないものは芸を身に付けるべきではない、という逆のメッセージを受けとった。この映画をきっかけに、日本ではフラが流行ったらしいが、日本各地で映画の最初のレッスン場面のような光景が繰り広げられたのかと思うと、頭が痛くなりそうだ。小市民的感覚が観客の共感を呼び、自分でもできそうだという幻想を抱くのだろうか。私は、人間の脳は単純ではあるが、それほど単純でもない、と思っているので、直接的に小市民感覚に語りかけるようなこういった作品は、作り手受け手両方の脳を麻痺させるような気がして、好きではない。

似た設定の「フルモンティ」も貧乏くさくてあまり好きではなかったが、コメディとしては悪くなかった。「フラガール」ではユーモアが中途半端なため、感動的であるはずの場面の効果も薄れているし、ユーモアと一緒の方が社会状況もきちんと浮かび上がってきたと思う。常磐ハワイアンセンターは、日本の偽ハワイとしてギャグの対象だったはずだが、その視点はどこにもなく、対象にべったりの真面目な力技的演出だ。対象に共感しながら、例えばユーモアという形で距離を置くことは可能なはずだが。常磐ハワイと本物のハワイは、どちらが良い悪いではなく、違うものだ。が、その違いを意識し、自分の置かれている位置を確かめるセンスがないと、本物=アメリカ物は何でもいいという批評精神の欠如につながっていく気がする。それとも「常磐ハワイアンセンター」がギャグなのは暗黙の了解、という日本人にしか分からない前提で成立っているのだろうか?