ハリー・ポッター最終巻 Harry Potter and the Deathly Hallows


ハリー・ポッター最終巻が7月21日に発売されてから、759ページを2日半で読みきったが、すぐには感想がまとまらなかった。山場にさしかかったら止められず、朝日を迎えながら読み終えた。完璧ではないが、長いシリーズの終わりにふさわしい、期待を裏切らない面白さだった。

#以下は、ネタばれを最小限にしようと努めながらのレビューですが、全くの白紙状態で読みたい人にはおすすめできません。

作品のトレードマークの一つであるユーモアは、他の巻に比べて少ないが、ヴォルデモートとの最後の戦いなので、仕方がないだろう。ハリーとその仲間は大人になり、学校を離れ、戦いの最前線に巻き込まれる。最初からアクションの連続で、ハリーの周りの人たちがばたばたと傷ついたり死んでいく。

ハリーが真のヒーローになる試練として、父親的存在であるダンブルドアに従って、ヴォルデモートの魂の一部が入っている物体(Horcrux )を滅ぼすか、究極の力を手に入れること、つまり、死を征服することの出来る魔法の品3つ(Hallows) のどちらかを選ばなければならない。誘惑と試練に、馴染みあるファンタジーのデバイスを使うことで、読みやすくまとまっている一方、陳腐さも感じた。

敵か見方か分からないスネイプの謎も、当然明かされる。ハリーがヴォルデモートを倒すことを(その方法およびハリーの生死は別として)本心から疑っている読者は殆どいないだろうから、最後の最後まで引っ張ったスネイプの謎ときの方がクライマックスで、最後の戦いはアンチクライマックスの感もある。スネイプの描写が非常に良く書けているのに対し、上記のファンタジーバイスに頼った最後の戦いは多少紋切り型である。クライマックスが非常にキリスト教的という評もあるが、私には普遍的なテーマに思えた。

人生は自分で選び取っていくものである、というテーマは、シリーズを通じて繰り返し語られ、最終巻でも登場するが、人は変わる、というテーマがより大きく扱われる。それを最も体現しているのがスネイプとダンブルドア(彼の秘密も暴かれる)である。他のそれほど重要でない脇役もそのテーマを補強しており、彼らの変身にしばしば驚かされる(唐突な印象を与える人物もあり)。ハリーは変わらないわけではないが、本質が変化したわけではなく、成長といった方がふさわしく、映画の「スパイダーマン」のように、人生における選択のテーマをより体現している。善悪の両極端にいる、変わらないハリーとヴォルデモート、その間にスネイプとダンブルドアがいて、ハリー/スネイプ/ヴォルデモートの間の、魔法使いと普通の人間の間に生まれた“half-blood Prince”としての共通点もより強調されている。

いわば、ハリーはより興味深い脇役たちを描くための狂言回し的な主人公とも言え、私自身はあまり愛着がないキャラクターだが、かといって、子供たちにとってのハリーの魅力を否定する気は全くない。ファンタジーの主人公は退屈なキャラクターが多いが(例:「ナルニア」)ハリーはこれもファンタジーでの典型である、単なるいじめられっ子である以上の存在として、現代っ子の共感を呼ぶよう書き込まれ、読者が彼と一緒に成長していけるようになっている。

非常にグラフィックに描かれ、漫画的と批判されることも多いシリーズだが、いまどきの子供に本を読むきっかけを作ったのと同様、私にも英語の本の楽しさをあらためて教えてくれた。アメリカ生活が長くなると、仕事以外では英語を読まなくなる日本人が多く、私の英語読書量も減っていたが、ハリー・ポッターをきっかけに、英語の本をまた読み出すようになった。漫画/ハリウッド的な要素と、元文学少女の私でも満足できる文学的な要素(人物描写など)に加え、全体の構想が練られたのが1990年とはいえ、作品が進むにつれ、911以降の現実世界と呼応するかのように暗い雰囲気になっていく同時代性が混じり合って、現代のファンタジーとなっているのが、幅広い人気の理由である。

シリーズをぱらぱら読み返してみて、細かいところまできちんと伏線が張ってあって、緻密に構成されていることが分かった。それらを拾っていきながら、読み直すのも楽しみで、何度でも読み返せそうだ。全部の謎が解かれているわけではなく、エピローグもシリーズの長さに対して短すぎるが、想像する楽しみが残されている。朝日の中で読み終えたのも、テーマの一つを象徴するうれしい偶然で(読めば分かる)幸せな読書体験の一つとなった。