Hairspray ヘアスプレー

ブロードウェイでヒットしたミュージカルの映画化は、最近の「プロデューサーズ」など、舞台のエネルギーをスクリーンに移すのに失敗している例も多い。が、この映画化は意外なほどいけてる。最初の一時間はアップテンポの明るい曲が矢継ぎ早に歌われ、オープニングからテンションがずっと上がったまま。その後エンディングまで多少テンションが下がるものの、長いエンディングではまたぐいぐい見せる。見終わった後ハッピーな高揚感にひたれる作品だが、それは大きなカッコつきの幸せである。英語で言うところのGuilty Pleasure、つまりダイエット中のお菓子のような、罪悪感を感じさせながらも美味しい存在だ。

かって工業都市として栄えたが、スラム化が進みだした1962年のボルチモアを舞台に、チビデブの女子高生と黒人(人口に占める割合は非常に多いが)とを差別される存在として同等に描いた、1988年作のジョン・ウォーターズの映画の毒はブロードウェイで漂白され、その映画版ではさらに漂白され、観客に全く噛み付かない。ボルチモアに住みたいと思ってしまう日本の観客もいるかもしれない(現在のボルチモアは再開発計画を実行中だが、その効果が市全体に表れるのはまだ先のように見受けられる)。トゥイーンズ女子に人気のディズニーのTVミュージカル「ハイスクール・ミュージカル」並みの無害さで、「他人と違っていても、自分自身でいて大丈夫」という作品のメッセージも一緒だ。

が、この制作者たちが、ミュージカルの映画化を非常に良く分かっているのは、舞台と違ってよりインティメイトなメディアである映画に、舞台版キャストではなく、ジョン・トラボルタクリストファー・ウォーケンら、観客にとって遠くて近い存在であるお馴染みのスターを起用したことだ。ヒロインの大デブ母を演じるトラボルタのなんと愛らしく好感が持てること!ウォーケンはいつもながらの怪しさそのままで歌い踊り、トラボルタの夫役としてはまっていた。「他人と違っていても大丈夫」というディズニー的メッセージは、より強調された極端な設定によって生きてくる。

オープニングの「Good Morning Baltimore」から、チビデブなヒロイン(ニッキー・ブロンスキー)のハートをわしづかみにするような可愛さにノックアウトされる。街中で突然歌い踊りだす彼女の姿は、往年のミュージカルのパロディーでありながら、その本質的な至福感をつかんでいる。オリジナル映画の時点ですでに嘘っぽかったご都合主義は、いくらミュージカルとはいえストレートにリメイクしたのでは、今では成立たないゆえのパロディーだが、牙を抜かれた善良さと(意地悪な人間は出てくるが邪悪な人間は登場しない)ゆりかごの中にいるような心地よい安全さに涙が出てくる。

オリジナル映画では他のアーティストの曲を口パクし、すでにミュージカル様式のパロディーであったが、ここでのパロディーはより巧みに進化している。60年代音楽の様々な様式を巧みにつぎはぎしたパスティーシュ音楽(映画「サウスパーク」の音楽も担当したマーク・シャイマンによる)は新しい要素は何もないが、とにかく前へ前へと、物語を高揚感の内に進ませる。最近公開された映画版「スウィーニー・トッド」と違い、出演者の歌唱力(特にブロンスキー)が優れているのも安心度を強め、大船に乗った気で、センチメンタルで善良で小さい世界(映画の中心となるテレビ番組はボルチモアの地方局による番組で、その中で人種や人気争いが起こる)に涙することができる。舞台版とほぼ同じ展開だが(とはいえ、主人公が人種統合デモで投獄される場面はなくなっており、ここでも漂白化が進行)映画向けの振付けや場面構成になっており、脚本も舞台とは違うライターを起用している。

ブロードウェイの舞台が開く前、2001年の暮れにオーディション風景を取材に行き、ジョン・ウォーターズと少しだけ話したことがある。「I love your movies」とかつまんないことしか言えなかったが、嫌がらずに相手してくれた。実際に見るとヘンタイっぽさは感じられず(かといってサラリーマンの中では浮くと思うが)物静かで上品な大学教授といった感じ。