Into the Wild

実話に基づいた同名のベストセラー本(邦題「荒野へ」)をショーン・ペンが映画化。放送映画批評家協会(BFCA)賞にノミネートされるなど評価が高い作品だが、私は最初から最後まで嫌い通した。映画を見てこんなに腹が立つことはなかなかない、野グソ映画だ。

優秀な成績で大学を卒業した青年クリストファー・マッカンドレス(エミール・ハーシュ) はエリートコースを進まずに、物質主義と家族や友人の絆に背を向け、ヒッチハイクをしながらバックパック一つでアメリカ各地をさまよい、最後には人っ子一人いないアラスカの奥地にたどり着き、猟をしながら100日以上を過ごすが、1992年8月に餓死する。

雪深いアラスカで帽子を木の枝にかけ捨てるオープニングから、作品全体への大きな疑問符が浮かぶ。NYの映画館の外は体感温度マイナス6度で、帽子は欠かせない。NYより寒いアラスカで帽子を捨てるなんて!その行動の理由は後で明かされるものの、とにかく2時間半という長すぎる作品の節目節目は気に喰わないことだらけだ。

旅に出る前にSocial Security Card(社会保障番号カード)などのIDを捨て、アラスカに入る前に現金を焼く。アメリカに生まれ、アッパーミドルクラスの白人家庭で甘やかされて育った、移民が社会保障番号を獲得する苦労を知らない、理想主義の坊ちゃんにしか見えない。アラスカ入りの前に農場やファーストフードで働き、お金の苦労を知らないわけではないのに、いくら物質主義否定といっても、焼くことはないだろう。でもまだ作品は始まったばかり、これから主人公の成長が見られるはずだから我慢しよう、と腹を決めたが、その期待は次々と裏切られた。

グランドキャニオンを流れるコロラド河の激流で、たいした経験もないのに一人でカヤックに挑戦する。勇敢というより単なる自殺行為だ(私はコロラド河でラフティング・ツアーに参加したことがある)。グランドキャニオンやアラスカなどアメリカ各地の大自然の風景が非常に美しく撮られているが、自然をなめている主人公の視点から見ていると思うと、その美しさも半減する。アラスカ奥地で過ごすのが、使われなくなったヒッピーバス(スクールバスを改造して住めるようにしたもの)の中というのも気にくわない。バスを偶然見つけなければ、一晩で凍死していただろう。

主人公が旅をしながら出会う人々も、いかにもステレオタイプで面白くない。ワゴンで旅をする初老のヒッピー夫妻や、農場のマッチョな男たち。世捨て人的生活をおくる親切な老人には、しぶる彼に山の上からの素晴らしい景色を見せようという挑発のためとはいえ、失礼な口を聞く(You're sitting on your butt)。親に心配かけて長いこと旅した結果が、お年寄りへの侮辱とは情けない。せっかく映画にするには何か旅から得たものがあるはずだ。彼が学んだことは"Happiness is only real when shared(幸せはそれを分かち合える時だけ存在する)"。貴重な真実ではあるが、主人公に全く好感が持てないので、わざわざアラスカまで行かなくても分ったのでは?と疑問に思う。私も貧乏旅行をたくさんしたし、'95年に日本からNYに来たのだって自分探しのためでもあるが、彼の旅の苦労も悲惨な結末も、自分で選んだのだから同情の余地なし、と思ってしまう。

ヒッピー・コミュニティで会った可愛いティーンエイジャーに迫られてもセックスしないのも変だ。いくら女の子が16歳だからって、お互い好感持ってるんだから良いじゃないか。一緒に何かやりたいなら別のことをしよう、と彼女にギターを持たせ、彼はオルガンを弾いて、皆の前でフォークを歌うのには、ほんとに吐きそうになった。個人攻撃はしたくないが、こんなクソ映画をまじめくさって撮ってしまったショーン・ペンの離婚は当然だ。都会田舎郊外世界のどこでも、生きていくということは野性のジャングルの中にいるようなものだ。もともと孤独な存在である人間が仲間を求める本当の意味が、アラスカに行かないと分らないようなお坊ちゃんに入れ込んで美化するようなオッサンとは、私だったら一緒に暮らしたくない(役者としては優れているが)。ヴェルナー・ヘルツォークの「グリズリーマン」の主人公も嫌なヤツだったが、嫌なヤツであることをはっきりさせているところがまだ良心的だった。作品に対する反感のため、映画館を出たらむしょうに無駄遣いがしたくなった。