内田吐夢&仁義なき戦い


BAMで4月11−30日まで開催中の内田吐夢特集の封切作品は「浪花の恋の物語」。大阪商人と京都芸者の古くゆかしい言葉、浪花の廓風景に満開の桜、ああ日本の春だねえ。通常の名画座より大きいワイドスクリーンにどーんと飛び出る東映の三角マーク、はなっからわくわくする。
近松の心中物「冥途の飛脚」「恋飛脚大和往来」を基にしているが、構成はモダンだ。
親の借金の肩に芸者になった有馬稲子と飛脚問屋の養子である中村錦之助の恋。若い二人の道行きを題材に台本を描く近松片岡千恵蔵)は虚構と現実を交錯させながら、人生の真実を追究していく。近松の鋭いが暖かい目は、若い恋人たちだけでなく親や友人にまで広がり、作品の深みを増している。顔のでかさもスターの印である千恵蔵の出番はあまりないが、効果的でかっこいい。
道行の現実とそれを基にした近松の舞台が平行して演じられ、舞台は有馬稲子錦之助文楽バージョンの両方がある。文楽は舞台側から観客席に向けて撮られ、ブニュエルの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」の劇場場面のような、現実と虚構の境が曖昧になるシュールな味わいがある。劇場の観客をすべるように動くカメラワークにもぞくぞくする。
有馬稲子は私が嫁にしたいほど優しく色気があるが、飛脚問屋の養子である中村錦之助 はハンサムでもウブで、大していい男には見えない。それでも、最近の日本映画から感じるナイーブさと違い、落語の「明烏」の若旦那を見ているような世間知らずには抵抗を感じなかった。今は子供でも、周りの大人たちに育てられていく存在であり、社会全体のしっかりした暖かさが感じられるからだ。彼が芸者に入れあげて、許婚や仕事をないがしろにすることを、問屋を仕切る義理の母(田中絹代)はうすうす感づいていながらも、直接口に出さず見守っていく態度に代表される、全てを口に出すことはなく動いていた繊細な社会が、繊細に描かれる。
でも、若い二人の恋物語から受ける印象は残酷だ。近松の原作ではどうなのだろうか?女は目の前の具体的な男を愛している。が、義母と許嫁の心遣いが身にしみた男は、女をあきらめて地道に商売と許嫁にもどろうと思うものの、芸者を身請けしようとする田舎大臣(東野英治郎の泥臭くいやらしい演技が最高!)の登場により、男のプライドにかけて女を張り合うことになる。男がそこに見ているのは目の前の女ではなく、永遠の「女」だ。有名な純愛物語ですら、男女の間でこのように大きなすれ違いがある(一緒に逃げるうちに、男の愛は目の前の女への愛に変わっていくが)。それでもロメオとジュリエットのような馬鹿っプルに見えないのは、女が昔の遊女で、身も心も売り渡した自由のない奴隷であり、男が彼女にとって唯一の救いであるからだ。

「血槍富士」:「浪花の恋の物語」より普通の出来。千恵蔵も「浪花」のほうが断然かっこいい。侍(月形龍之介)と家来二人(千恵蔵と加東大介)が江戸に向かう途中で、主従の間や道中会った人々との交流を描く人情物と思いきや、ためにためて、千恵蔵が長槍を振るい、主人と同僚の敵を討つ最後の場面で一気にカタルシスに持っていく。1955年の東映作品で、後の東映任侠映画のパターンに似ている。加えて強烈な反侍メッセージは、小林正樹の作品をも思わせる。

仁義なき戦い」:アップタウンのAsia Societyで開かれた、やくざ映画特集の最後に上映されたが、ちぐはぐな雰囲気だった。スクリーンは大きいが、大きな舞台の奥にあり、手持ちカメラ映像のライブ感が冷えてしまった。ダウンタウンのNY大学やハーレムの「Snake on the Plane」で盛り上がるような劇場でやったら、熱気と笑いがあふれただろうに残念だった。上映後のQ&Aも日本映画おたくではなく、ひまな金持ち老人風からの質問が多かった。作品冒頭の米兵によるレイプ場面について、当時九州に駐留していたがそんなことはなかったと強硬に言い張る老人や、日本映画の一般的なレーティングについてなど、別にこの映画でなくても良いような質問が多かった。解説者からも作品の楽しさが伝わってこなくて、自分が代わって壇上に上がりたくてうずうずした。

6月20日から8月7日まで名画座Film Forumで開かれる仲代達也特集に今から興奮している。「仁義なき戦い」の会場に置かれた案内を見ている夫の手から、思わずチラシをひったくった。黒澤、岡本喜八、成瀬など日本映画黄金期の歴史そのもの。できるだけ全部見るつもりだ。
http://www.filmforum.org/films/nakadai.html