The Dark Knightダークナイト


役作りに悩まされ、若くして死んでしまったヒース・レジャーへの遠慮とマーケティングの都合上、批評家は誰も大声で言わないと思うが、これは彼が演じるジョーカーの映画でも、ましてやバットマンの映画でもなく、アーロン・エッカートの映画だ。凶暴で恐ろしく、時にユーモラスな、ヒース・レジャーの鬼気迫る演技は、オスカーで同情評を集めるに値する素晴らしい演技だが、サイコで暴力的な知能犯という範囲内で圧倒的に極められた演技だ。
一方、エッカート演じるハーヴェイ・デント地方検事は、善から悪へと大きくふれる感情の旅によって、観客の共感を呼ぶ。ゴッサム・シティをジョーカーから守るために、バットマンとゴードン警部補(ゲイリー・オールドマン)と協力するが、ジョーカーの仕掛けた罠によって顔半分を負傷、ゴッサム・シティの表の顔から復讐鬼に変身してしまう。暗く緊張感が続くゴッサム・シティで、バットマンを表に出てこない分よりノーブルとも言える「ダーク・ナイト」、エッカートを太陽のように輝く表側の騎士として対照的に描く演出意図以上に、エッカートが魅力的過ぎるようにも思い、作品を間違えた気すらしてしまう(彼は決して私のタイプではないが)。ヒッチコック作品のジミー・スチュワートを思わせる普通っぽい魅力をたたえながら、心の暗黒を垣間見る。ヒッチコック映画と違うのは、あちら側から戻ってこないことだが、それまでには観客はもう引き返せないほど、彼に感情移入している。ヒース・レジャーは、スーパーヒーロー映画として異常なほど暗く緊張感が続く作品に完璧に属しているが、アーロン・エッカートは作品自体を食ってしまった(しかしアメリカ人にとっては、ハーヴェイ・デントが復讐鬼トゥーフェイスになるというのは、ネタばれでなく誰もが知っている作品の前提なので、感情の揺れの意外性から来る共感は、私が感じたよりは薄いかもしれない)。
バットマンはジョーカーとも対比して描かれる。いつもながらフリーキーなコスチュームで高層ビルの上に一人たたずむことで、ジョーカーに通じる異質性が強調される。政府や警察内部でも誰を信じていいか分からず、純粋に善なのはゴードン警部だけだ。ゴッサム・シティは、ティム・バートン版のように暗いおとぎ話風ではなく、特徴がないが現実的で、世界中どこでもありえる、観客に引き寄せたデザインだ。登場人物の複雑さも現実世界を反映し、大衆が真実を知らされないのもアメリカの現実そのものだ。ヒーローは悪に墜ち、真のヒーローは表に出てこないという真実を。一般大衆の私は、その無力さと真実の力に打ちのめされ、落ち込んだ。
この作品が興行記録を塗り替える大ヒット中で、映画チケット・サイトのFandango.comのアンケートによると64%の人がもう一度見る予定という結果が出ているのは、バットマン物&ヒース・レジャーの死というだけでなく、現実が鋭く反映されていながらも、ドラマ・アクション・ビジュアルの充実した、優れたエンターテイメントであるからだろう。が、私は控え目だからこそノーブル、と言えば聞こえはいいが、バットマンの影の薄さが気になって、エンターテイメントとしての十分なカタルシスを得ることが出来なかった(ダークでシリアスでハッピーエンドでなくても、元気になれる作品は沢山ある)。だから、圧倒はされたものの、また見ようとは思わない。シリアスさを軽さに包み、何度でも見たくなる、もう一つの今年夏のスーパーヒーロー物ヒット作「アイアンマン」とは対照的だ。どちらも主役はセレブな億万長者で、両作品とも主演と脇役に演技派を揃えているが、「バットマン」は悪役がより目立ち、「アイアンマン」ではヒーローの存在感が圧倒的、マスクを外して正体を明かすことに葛藤する前者(この方がスーパーヒーローとしては正統)に対し、後者は正体を結局は告白してしまう。