黒澤明生誕100周年特集@Film Forum

黒澤明生誕100周年を記念して、ニューヨークの名画座フィルム・フォーラムでは、29作品 (ほぼ全作品)を一挙上演中。「野良犬」のニュープリントで始まり、「乱」で終わる。
http://www.filmforum.org/films/kurosawa.html#121


「虎の尾を踏む男達」
1945年に製作されたが、「主君への忠誠という封建思想」を扱っているとの理由でGHQが上映禁止し、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年まで上映されなかった。歌舞伎の「勧進帳」に基づいた、1時間弱の作品。義経と弁慶一行の逃避行にお供する強力役で榎本健一が出ている。武士の厳かな芝居の中で、エノケンの存在は浮いているが、彼を見るだけで十分価値がある。ドナルド・リッチーは「ハムレットの中にジェリー・ルイスを投じたような」と評したが、体と表情を自在に使った、イノセントでアナーキーなギャグは、台詞ありのハーポ・マルクスのようだ。日本人コメディアンでこれだけ世界にアピールできる役者は他に思いつかない。ニューヨークの客にも受けていた。
作品自体は、「勧進帳」が人気ある古典とはいえ、全くプロパガンダ臭がなく、終戦末期に製作された意図が不明な場違いさを与える。終戦後に完成すると、GHQからは、民主主義を称えるプロパガンダがないために上映禁止の処分を受けた。この場違いさは、言い換えれば、時代を超越した日本らしさである。山伏に偽装して関所を越えようとする義経一行は関守に止められ、急遽弁慶は強力に化けている主人の義経を叩いて、彼が貴人でないことを証明しようとする。関守の富樫が本当に納得したかどうかは問題ではない。弁慶は「家来は主人を叩かない」という武士に共通する行動規範に訴え、富樫はそれを尊重して、一行を通過させる。より後の時代を描くチャンバラ映画はもちろんのこと、武士の行動規範にならった仁義あるヤクザも行っている、儀礼の交換である。しかし、歌舞伎(特に日本人が大好きな義経)と能の「安宅」、武士の思想という非常に日本的なものが題材でありながら、能の地謡に当たる部分をコーラス風に編曲してあるのは、その後の黒澤作品を思わせる。「用心棒」など海外では日本的と思われながら、実はとてもアメリカ的で、それゆえに海外で受けている。1947年の「素晴らしき日曜日」では、音楽がさらに重要となっている。


素晴らしき日曜日」
フランク・キャプラの「素晴らしき哉、人生!」からジミー・スチュワートを抜いて、百歩譲っておかめ的に可愛いかもしれないが、そのうざったさに値するほどは見る価値のない女を足した「庶民劇」。戦後間もない東京の日曜日、清く美しく生きようとする男は貧乏に絶望し、婚約者はそれを根拠なくはげまそうとする(そのくせ、唯一金がかからないセックスはさせない。部屋に戻ってのセックスを提案する男に、シューベルトのコンサートを逆提案し、いざその場に及ぶと、拒絶の意を示して少なくとも2分間は泣き続ける。男に深く同情)。いまだ生活が苦しい中での、普通の庶民の日常をリアルに描こうとする意図は分かるが、2時間弱を持たせる魅力が主役のカップルにないのがしんどい。上野動物園などのロケもあり、当時流行のネオリアリズム的でもあるが、焼け跡の場面は明らかにセットで、ドイツ表現主義的なカットが混じったりもする。
明らかに実験的なのは、ヒロインが観客に呼びかける場面だ。金のない二人は、夜の日比谷野音で、ダフ屋に安いコンサート切符を買い占められて聞けなかった、シューベルトの「未完成交響曲」を想像で聞こうとする。日曜を楽しむ金も才覚もなく、ナイーブに落ち込むというパターンが延々と続く作品である。男は指揮者になり、想像でオーケストラを指揮するが音楽は聞こえてこない。女は観客に向かって、「私たちに美しい夢が描けるように拍手をお願いします」と呼びかける。日本での上演では拍手がなかったが、パリでは熱狂的な拍手を受けたそうだ。ここニューヨークでも拍手があり、音量は小さくなかったものの、「何じゃこれ、でもとりあえず参加しよう」的な拍手だったような気がする。
「未完成交響曲」が、戦後まもない日本と、結婚どころかデートもままならないカップルを表していることは明らかで、シューベルトが戦前から人気だったことも創造に難くない。でも、アメリカ占領下でなぜヨーロッパのクラシック音楽なのか?二人は、カフェ開店の夢を語り、店でかけるレコードはクラシック中心でポップはあまりかけないと言う。当時流行っていた「リンゴの唄」が、物資が豊富な闇キャバレーで働き、客に酒を飲ませるために酔いつぶれるホステスの場面で皮肉に流れる。日本文化を否定し、占領下であるアメリカとその影響を受けたポピュラー音楽をも言下に否定し、ヨーロッパ文化を精神的な価値のあるものとして崇める。アメリカ占領下において、検閲を通りながらも反骨精神を示そうとしたのだろうか?音楽担当は「虎の尾を踏む男達」同様、後に芸大教授となり、クラシック音楽の大衆化に努めた服部正