マカロニ・ウエスタン

4月に一時帰国した際、共通の友人のいるS氏と初めて話し、マカロニ・ウエスタンの話で盛り上がった。ニューヨークに戻ってすぐ、行きつけの名画座フィルム・フォーラムからマカロニ特集のチラシが届いた。レオーネの「荒野の用心棒」シリーズと「ウエスタン」は好きでも、他のマカロニ映画は見たことなかった私は、どれを見たらいいかS氏にたずねた。しばらく音沙汰がないと思ったら、「マカロニ愛」と題した20枚ものレポートが、特集開始にぎりぎり間に合うように送られてきた。
フィルム・フォーラムの特集では、マカロニ好きでは右に出る者はいないアレックス・コックスが「怒りの用心棒The Price of Power」を紹介するイベントもあり、二人のマカロニ愛が伝染して、この6月は映画とビデオ合わせて24本を見るという、マカロニ月間になった。どれがどれだか分からなくなってしまいそうなほど設定も役者も似ているのに、それぞれ違った魅力で見飽きなかった。以下、かっこの中に入ったタイトルはビデオでの観賞。


続・荒野の用心棒 Django

コルブッチのこの作品と「ガンマン大連合Companeros」は、今回のマカロニ特集でいちばん楽しめた。マカロニの基準からしても質量ともにバイオレントでテンポが速く緊張感が持続する。棺おけ引きずってぬかるみを歩く、ペシミスティックで無表情なフランコ・ネロぶっきらぼうな台詞は妙にユーモラスで、クリント・イーストウッドの「用心棒」よりも演技に幅があり魅力的。90分間にアクションが詰め込まれ、シニカルで、時にはユーモアもあり、メロドラマは最小限に抑えられて無駄な場面がないという、マカロニに限らずBムービーの手本みたいな完璧な作品。主人公ジャンゴの復讐や金を求める動機はあいまいにしか描かれないが、それは大した問題ではなくノンストップ大盤振る舞いのアクションが大事。それでいて、泥まみれのゴーストタウンは芸術映画のように美しく撮られ、独特の映像美を表現している。南部の人種差別主義者とメキシコの将軍、どちらの悪役もカリスマがあり魅力的なのも緊張感を持続させている。対立する両方の側がどちらも腐っているというシニカルさや反キリスト教的な姿勢は非常にコルブッチ的でもある。

「復讐のガンマンThe Big Gundown」と続けてみたので、モリコーネの音楽が映画の格を上げることを実感できた。見るからに低予算の「続・荒野」は、モリコーネを雇えない。「ガンマン」はモリコーネを雇う予算があり、その音楽は映像の格をさらに上げるという相乗効果。とはいえ、ルイス・エンリケス・バカロフによる「続・荒野」の音楽は、「ジャンゴー!!」というボーカルの繰り返しが印象的なタイトル曲をはじめ効果的で、マカロニ=モリコーネという不勉強な認識を改めさせられた。


復讐のガンマン The Big Gundown

リー・ヴァン・クリーフがメインと思って見に行ったが、その期待はうれしくも裏切られた。トーマス・ミリアン演じるメキシコ人コチョという、より共感を呼ぶキャラクターのためだ。チビで貧しいコチョは一見アホにしか見えないが実は非常に賢く、銃を持ったでかい白人たちの追跡を知恵で切り抜ける。ヴァン・クリーフがミリアンを追っかけ続ける理由が「男の意地」でしかないので、ミリアンのほうにどうしても必然性がある。途中で多少長く感じられるが、ヴァン・クリーフとミリアンの追っかけっこに政治的要素も絡めて全てをまとめるにはこの長さが必要だと最後に納得させられる。

あまりにもクラシックな「俺は左にお前は右に」分かれるラストシーンは、映画館で見る幸せをかみしめることができる場面だ。そこに流れる「Run Man Run」も一度聞いたらその歌唱が忘れられないモリコーネ曲だが、こういう場面だったのか!と納得。淫乱女牧場主や決闘マニアのオーストラリア貴族(決闘場面には「エリーゼのために」の最初の2音がティラティラティラと繰り返される)といった脇役も楽しい。


殺しが静かにやって来る The Great Silence
雪の中のウエスタンという異例の舞台がラストの無常感とマッチした傑作。武満徹の映画音楽のような日本的わびさびさえ感じさせるモリコーネの音楽も、そのはかなさを深めている。深い雪の中を走りにくそうに走る馬たちもリアルに閉塞感を表して印象的。


怒りの用心棒 The Price of Power

アレックス・コックスに会った!
すごく良いヤツで、映画のことを話したり、語り合ったりするのが大好きな感じが伝わってくる、映画愛にあふれた人だった。タランティーノほど芸人すぎず、普通な映画好きに見えて話しやすい。

まず、タランティーノの新作「ジャンゴ 繋がれざる者」の予告編を上映してから登場。
満員の会場は、このマカロニ特集全般に言えるが男3分の2かそれ以上、わりとガタイの良い人しかも前のほうの座席を好む人も多いので、座る場所に気を使う。アレックスは赤無地の野球帽にインディアンの毛布みたいなジャケットで登場。イギリス人の割にはかなりアメリカよりの明るい印象。

これから上映する「怒りの用心棒」の解説。JFK暗殺を西部劇のダラスに持ってきたという設定で、監督はレオーネの助監督の一人トニーノ・ヴァレリ。レオーネは役者の扱いがうまくなくて助監に任せていたそうだ。「マカロニ映画で最もハンサムな男優」ジュリアーノ・ジェンマ主演で、ジェンマは数年前ベニス映画祭で会ったときに、自分の最高傑作は「怒りの荒野」と言っていたがそれは違う、今から見る作品が彼の最高傑作で、エンリケス・バカロフによる音楽も素晴らしいと語った。

映画はすごく面白かった。誰が誰の側についているのか、複雑な政治関係がテンポ良く描かれている優れたスリラーである。ジェンマのお父ちゃんは太った中丸忠雄みたい。FBI(アレックスいわく)役の俳優は丹波さんにそっくりで、刑事役は国境を越えて似てるんだなあと感心。

上映後、アレックス再び登場、「政府は信じられない」という作品のメッセージは興味深いだろう?と良い映画を見た後のテンションで言いながら。ジェンマは、政府の腐敗を知りながらも無政府状態を防ぐために、政府を覆すインパクトのある書類をFBIに渡す。ジェンマの顔は、マカロニ映画の基準からいっても私の好みからしても甘すぎるけど、書類を渡しながらも「政府を信じていいのだろうか」と苦悩する役柄としてはこれでいいのかなと思う。

Q&Aの内容は忘れたが、特にこれというものはなかった気がする。この特集で上演される「復讐無頼・狼たちの荒野Tepepa」は、あまり知られていないが、オーソン・ウエルズの出番が多く演技も素晴らしいので必見とすすめていた。次の上映作「夕陽のガンマン」の時間がすでに押していたので、質問は3つ半くらいだった。主催者が最後の質問と言った時に、後一個半とすかさず返し、出来るだけ多く対話をしようとしていたのに好感が持てた。

その後ロビーでは、アレックスのマカロニ本「10,000 Ways to Die」の販売とサイン会が行われ、ファン一人ひとりの質問に気さくに答えていた。私は、このマカロニ特集を見ていて不思議に思い、ネットで調べてもわからなそうな質問をしてみた。「殺しが静かにやって来るGreat Silence」と「復讐のガンマンBig Gundown」には、アウトサイダーとしてモルモン教徒が沢山出てくるが、これはマカロニ特有のものなんだろうか?という問いである。黒服や一夫多妻などでアメリカの奇妙さ(bizarre)を表現しようとした、エクスプロイテーション的チョイスではないかというのが彼の答えだった。後になって、マカロニと政治の関係についてもっと聞けばよかったと思った。簡単に答えられる質問でもないだろうが。

前述のS氏と私の親友の親友が近日結婚するので、お祝いに本にサインしてもらうことにした。結婚の贈り物にしたいので、何かメッセージをくださいと頼んだら、「なんていいアイデアだ!」と喜び、「僕たちの結婚のようにいい結婚でありますように」と書いてくれた。周りの映画おたくたちもヒューヒューと祝福してくれた。どうもありがとう!


(荒野の用心棒 A Fistful of Dollars)
あまりにも細部にいたるまで「用心棒」をコピーしていて、「用心棒」に比べ自由な楽しさが少ない。イーストウッドは三船より演技の幅が狭く感じられる。


(夕陽のガンマン For a Few Dollars More)
「用心棒」を離れてオリジナルとして羽ばたいた強力な娯楽作品。ヴァン・リー・クリフという、イーストウッドと対等かそれ以上の敵役の登場が何よりも大きい。やっと三船と仲代の対決が見られるマカロニ「用心棒」に進化したとも言える。


(黄金の棺 Hellbenders)
南北戦争後に南軍の再起を狂信する親父と三人の息子が、女を南軍将校の未亡人に仕立て上げ、将校の棺に黄金を隠して輸送しようとする。しかし、度胸があり頭が良く美しい女(ノーマ・ベンゲル)は利用されるままではいない。強い女好きのコルブッチ作品の中でも有数の強さ。


群盗荒野を裂く A Bullet for the General

ジャン・マリア・ボロンテの魅力が炸裂。「用心棒」の三船のユーモラスさ、セクシーさ、スケールのでかさに、仲代の怪しい目の光を足した強力さである。ボロンテのキャラクターそのままに行き当たりばったりの展開のように見えるが、最後はびしっと決まる。単純豪快で寂しがりやで宴会好きで無学な盗賊というボロンテが最後に示す、意外で複雑な決断には切ない余韻が残る。メキシコ革命の実態に迫ったともいえるし、メキシコ人盗賊とグリンゴのラブストーリーでもある。脚本は「復讐のガンマンThe Big Gundown」のフランコ・ソリナス監督で、微妙さと政治的なタッチに納得。

クラウス・キンスキーとボロンテが兄弟というめちゃくちゃな設定で「似てない」と突っ込みが入り、片親が一緒と説明されている。が、似てない兄弟の絆は強く、マシンガンを取り戻そうとするボロンテに、S氏いわく「顔面最終兵器」のキンスキーが「戻ってきてね」とうるうるする貴重な場面では場内が沸いた。ボロンテ率いる盗賊の一味にも強く美しい女が登場。最後に拍手。


ガンマン大連合 Companeros

コルブッチ作品を見ると石井輝男の映画が見たくなり、これは特に「大逆転」が見たくなる。ノンポリ石井輝男が自分の世界を突き進めつつ娯楽作品を生み出したのと比べ、コルブッチ作品には、鈴木則文的な左の要素を強めて、シニカル度も高めた価値観が大元にある。にもかかわらず、くだらなくてバイオレントでテンポが速い面白すぎる作品に仕上がっている。フランコ・ネロが「お前の母さんでべそ」みたいな台詞で敵を挑発するのには笑ってしまう。高校生の男の子が楽しんで作っているように見えるプロの仕事だ。「続・荒野の用心棒Django」とこの作品は、満員の映画館で笑いながら見られて、楽しさが倍増した。

悪役のジャック・パランスは義手にペットの鷹、ハッパ好きという強烈さで、岡本喜八作品で天本英世が演じるヘンな悪人に初期の西村晃を足して、セクシーさと恰幅をボリュームアップした感じ。

「ジャンゴ」のフランコ・ネロが無表情な顔から繰り出すユーモアは、イタリア語の台詞と英語字幕の違いによるものなのかどうか微妙だったが、この作品でのコメディアン振りを見ると確信犯だったことが分かる。

トーマス・ミリアンは「大逆転」の千葉ちゃんを思わせるアホな、でも完全にアホではないキャラクター。しだいに革命に目覚めていくという設定で、チェ・ゲバラを思わせる髪型と帽子が生きてくる。

学生たちの革命は紅衛兵を(女学生のショートカットは「恋する惑星」のフェイ・ウォンのショートと並んで胸キュンもの)、非暴力を説く指導者はキング牧師を思わせる。結局暴力で解決することになってしまうというペシミスティックな展開にもかかわらず、マシンガンをぶっぱなすフランコ・ネロの、ナイフを投げるミリアンのうれしそうなこと!ネロのマシンガンは「ジャンゴ」から、ミリアンの「復讐のガンマンThe Big Gundown」でのキャラクターはナイフ投げの名人という設定を知らなくても、楽しんで作っていることが伝わってくる。一度聞いたら忘れられないモリコーネの主題歌も、ここぞというところに何度となく繰り返されて画面を盛り上げる。娯楽に徹した楽しい作品で、最後に拍手が起きた。


(情無用のジャンゴ Djiango Kill...If You Live, Shoot!)
「ジャンゴ」の続編ではなく、監督も役者も違うが、マーケティング上この題名となっている。が、マシンガンこそないものの、暴力とペシミズム、棺おけや黄金など、「ジャンゴ」に対するオマージュとなっている。コルブッチの過激なバイオレンスがおとなしく見えるほど、過剰で病的でユーモアに欠けた暴力。

おそらくマカロニ映画で最も荒涼とした町の一つである、ロジャー・コーマンのポー映画を思わせるようなセットに「ジェーン・エア」のようなゴスな設定、サスペンスを盛り上げる場面に繰り返し使われるホラー音楽と、ホラー要素の濃い作品だ。あまりにも執拗に映される絞首刑の死人たちの姿、まだ生きている男の腹から黄金の弾丸を抜きとろうと必死になる人々などなど、身体的な暴力とそれに伴う人間の貪欲さが一体化していて、パゾリーニの「ソドムの市」を思わせるようなサイコホラーでもある。

唯一声を上げて笑ったのは、十字架のキリストのようなトーマス・ミリアンが蛇やねずみ、吸血蝙蝠に襲われる拷問場面で、資料映像のイグアナ、こうもりのアップとミリアンの苦悶する表情が交互に映し出される。エド・ウッドを思わせるチープさがおかしいが、ここでもアップが多用され過剰さにあふれている。動物虐待も画面上で描かれ、ユーモアに欠けた暴力は私の好みではないが、緊張感あふれる画面には釘付けになる。

監督はホラー映画を作りたくて、ウエスタンの設定を利用したとのこと。黒シャツの制服の若者たちを好む悪役おやじはムッソリーニを連想させるが、監督は大戦中にパルチザンに参加してファシストと戦ったそうで、そのときの経験が元になっているらしい。過剰で病的な暴力と閉塞感はそのためだろう。


(野獣暁に死す Today It's Me...Tomorrow, You)
悪役を演じる仲代達矢は、バストアップと乗馬姿はイタリア男たちに引けを取らず、紙幣の山をつかんで恍惚となる狂気の目は得意の表現であり圧倒的だ。でも、ソファに座ったり、歩いたりして全身が映ると、何百年も洋服を着てきた彼らに比べると、日本人としてはガタイの良い彼でも姿勢が悪いように見えてしまう。過剰な目の表現もハナについてくる。が、最後の対決の場面は、「用心棒」とマカロニウエスタンを融合したようにチャンバラ的で楽しい。


ミネソタ無頼 Minnesota Clay)
「ジャンゴ」を撮る前のコルブッチで、まだスタイルを模索中といったところ。身体的なハンデを負うガンマン(ここでは視力)などの設定は「ジャンゴ」と共通しているが、主人公のおっさんにカリスマがないのが致命的。「良い人」な脇役のロマンスもうざい。


(Rita of the West)
当時イタリアで人気のポップ歌手が主演のミュージカル映画で、ボーイッシュな少女リタが主人公という異色のマカロニ・ウエスタン。少女歌手だけにインディアンと仲良しの「良いガンマン」で、敵は「ジャンゴ」や「リンゴ(イーストウッドが「荒野の用心棒」シリーズで演じた役のパロディ)という設定。「ジャンゴ」はパロディというか役者が違うだけで、衣装もスタッフも同じというめちゃくちゃさ。主人公が頭に羽を飾ったインディアンのアンサンブルと歌い踊る曲など話の種に見ておいてもいいが、曲も印象に残らずそれ以上ではない。


(さすらいのガンマン Navajo Joe)
モリコーネの素晴らしい音楽が映像を引き立てているにもかかわらず、バート・レイノルズの主人公を含め、人物に魅力がなく退屈。インディアン主人公の逆襲という視点は当時では新しかったのに残念。


(And God Said to Cain)

クラウス・キンスキー!!赤シャツに黒パンツ、「さそり」の帽子で銃を撃つ姿は、ウォーホールのカウボーイ・エルビスを邪悪にしたようだ。「Django the Bastard」と同様にホラー仕立てで、出番が多すぎないほうがサスペンスが高まるためだろう、キンスキーの出番は抑え目。売れてきて忙しくなったのかとかんぐりたくなるが、出番は気合を入れて演じていて、「殺しが静かにやって来るBig Silence」のときと同じくらい似顔絵が描きたくなる。復讐に燃えて殺しまくるキンスキーははまり役だが、同時に意外性の怖さという意味ではホラー度が弱まっている。脇役の魅力がいまひとつなのも難点。鏡を使った最後の対決場面は見もの。


Django the Bastard)
イーストウッドもどきの俳優がジャンゴ役、といってもコルブッチの「ジャンゴ」とは関係なし。「And God Said to Cain」よりホラー度がさらに進み、主人公は南北戦争で味方の裏切りによって殺されたはずの幽霊または超自然的な存在。主人公はカリスマに欠けるが、フリルのシャツを着たバカ殿的キャラクターのご乱行と切れっぷりが楽しい。


(Cemetery Without Crosses)
アート・マカロニ映画。セット、ロケ、衣装とも非常に美しく撮られている。前年制作のトリュフォー黒衣の花嫁」がネタか?夫を殺された黒衣の未亡人が、夫の友達に復讐を依頼する話。黒衣の未亡人はジャンヌ・モローより数段美しい。彼女が死ぬ場面で長々としゃべるのは興ざめだが、それ以外は登場人物の台詞が少なく、美しい映像を効果的に見せている。無常感あふれ、かつスケールの大きいラストは、「殺しが静かにやって来る」 や「群盗荒野を裂く」を思わせる。


(Kill and Pray)
スターが登場しないので、客寄せのためにパゾリーニをメキシコの革命牧師役にした政治的な作品。白人によるメキシコ人支配と女性への抑圧という階級闘争が、他のマカロニ作品より比較的ストレートに描かれていると同時に優れた娯楽になっている。主人公が、虐殺の生き残りのメキシコ人で、白人の宣教師に救われ、アメリカ人と思って育つという設定は、無数のマカロニ・ウエスタンのストレートな復讐の筋書きよりひねってあり新鮮。敵役の白人至上主義で女嫌いの金持ちとその一の子分役が病的で面白い。


(The Ruthless Four)
黄金探しにとりつかれて老いた男サムは、ついに金鉱を見つける。一人では掘り出せないため、かつて養子にしていたメキシコ人青年を仲間に引き入れるが、黄金を巡る欲望は青年の「保護者」をもひきつけ、サムは自衛上もう一人の男を仲間に引き入れる。誰一人としてお互いを信用せず、機会あればだしぬこうとして、最後まで展開が見えない。

その上、サムとメキシコ人青年、青年と「保護者」の精神的同性愛な三角関係が加わってさらにスリリング。しかも「保護者」は牧師の黒服と帽子を着た(邪悪なデビッド・ボウイに見えるときがある)射撃の名手クラウス・キンスキーで、青年をストーカーよろしく付け回し、彼を支配しようとする。砂漠では一人で黒い布を巻き、炭鉱では麻の袋(?)をかぶるなど、周りからは浮いてるがキャラクターには合った変な格好も絶好調だ。

スタイリッシュな映像とクラシック・ウエスタンな主題の対照が魅力的。4人の演技も最高だ。信頼できるパートナーと黄金を手に入れたいと思ったサムは、結局誰も信頼できず、黄金だけを手に入れるという哀しい最後も余韻が残る。このマカロニ・マラソンの中で最高作品の一つ。動物の骨が半分埋まって見える、無常感ただよう美しい砂漠も印象に残る。


(荒野のドラゴン Fighting Fists of Shanghai Joe)
「上海ジョー」というカンフー使いがテキサスに渡り、カウボーイになろうとするが、人種差別にあいまくり、虐げられた中国人とメキシコ人のために戦うというトンでも設定だが、意外とちゃんとした作品で面白かった。ラストの対決は、中国人(敵役は日本人ミクリヤ・カツトシが演じている)同士の対決でカンフー、チャンバラ、ピストルとなんでもあり!ジョー役のチェン・リーも適役で好感が持てた。


(復讐無頼・狼たちの荒野 Tepepa)
トーマス・ミリアンがメキシコ革命の英雄「テペパ」を演じる。オーソン・ウエルズのメキシコ軍大佐に処刑されようとしているテペパは、自らの手で彼を殺したいと願うイギリス人医師によって救われる。脚本は「アルジェの戦い」のフランコ・ソリナスが加わっているせいか過剰に政治的で、メキシコ革命側にべったりしすぎ、テペパを英雄化しすぎている感がある。聖人として描かれてはいないが。「アルジェの戦い」は素晴らしい映画だが、ここでは政治的要素やメッセージが娯楽性を邪魔している感がある。ソリナスだったら、この作品と設定が似ている「群盗荒野を裂く」の方が娯楽性と政治がうまく融合している。「革命戦士」としての子供の使い方も不自然。

ミリアンは相変わらずカリスマ的だが、彼の魅力であるアホさとシリアスさのさじ加減を少々勘違いした感じだ(鼻にかけたソンブレロの紐など)。オーソン・ウエルズは珍しくカメオでなくかなりの時間出演していて、手堅い演技と存在感を見せるが、別にウエルズでなくてもという感あり。モリコーネの音楽は素晴らしいが、あまりにも革命とその英雄テペパ万歳なメッセージの背景に使われている最後の場面は鼻につき、自らをパロディ化しているように聞こえてしまう。

マカロニ映画の監督が基本的に左なのは明白だが、19世紀から20世紀初めのメキシコやアメリカ西部の状況と60年代のイタリアの状況に特に共通したものがあったのか?娯楽映画としてマカロニが売れるからみんなそれに倣うという大前提がまずあり、そこに政治的要素をどれだけどのように盛り込むかは制作者しだいといった感じを受けるが。


(新・夕陽のガンマン復讐の旅 Death Rides a Horse)
完全な悪人だったら、この話が成り立たなくなるとはいえ、リー・ヴァン・クリーフのキャラクターがもっと悪いやつか、タイトルそのままに死そのものだったらもっと魅力的だった。幼いころ家族を皆殺しにされて復讐に燃える主人公には面白みと魅力がない。


(続・夕陽のガンマン 地獄の決闘 The Good, The Bad and the Ugly)
名作ではあるが、もはやマカロニの域を超えた「映画」であり、反戦などのメッセージ性が娯楽作品としてはうざい。捕虜収容所での曲自体は美しい楽隊の演奏などだ。自分ではがんがん人を殺しながら、南北戦争の戦いを見て「無駄に人が死ぬ」と言ってみるイーストウッドのキャラクターは、主人公三人の中でいちばん説得力が弱い。リー・ヴァン・クリーフの悪人ぶりは素敵すぎで、もっと見たい。北軍になりすました姿にも、制服好きでなくても萌え!!最後の対決の場面は何度見ても素晴らしい。円形広場があるこの墓地は、思うようなロケ先が見つからず、スペイン兵250人を雇ってスペインに2日がかりで作られたというのに、何百年もあるように見えてしまう映画の魔法ってすごい。


(ウエスタン Once Upon a Time in the West)

「昔々の西部に」という題名が語るように、これは西部開拓時代を舞台にした大人のためのおとぎ話だ。一つの文に要約できるほど単純な物語だが、出来事よりも映像そのもので語っていく、スケールの大きい抒情詩でもある。資金の豊富さによって可能になったスケールの大きさは「Good , Bad and The Ugly」よりもさらに強調、洗練されている。スペインやイタリアでなく、実際のアメリカのユタやアリゾナ大自然でのロケである。登場する街も、街路が一本だけだったり、ゴーストタウンではなく、本当の活気を感じさせる生きた街だ。

三人のギャングがチャールズ・ブロンソン演じる「ハーモニカ」を駅で待つ冒頭場面は、シネマスコープをフルに生かした横移動による広がりからすでに大きさを感じさせ、「Good , Bad and The Ugly」よりもサウンドデザインが作り込まれていて、完璧なオープニングだ。物語の運びはスローだが、人物の導入や出会いに無理がなく引き込まれる。後半の話の運びはやや分かりにくく、また、物語よりもビジュアルを重視している場面もあるが、おとぎ話であるから気にならない。予算と時間の余裕は、モリコーネの音楽が主な登場人物にそれぞれテーマを与えていることからもうかがえる。

おとぎ話の要素は、ブロンソンヘンリー・フォンダの、幽霊と天使と殺し屋がまじりあったような、この世のものとは思えない感のあるキャラクターにも表れている。彼らは人間ではないのだから、地に足のついたクラウディア・カルディナーレとは一緒になれない(レオーネ作品としては最高に強いヒロインだが、コルブッチ作品だったら、男にアイデアを借りなくても一人で強く生きていきそうだ)。特にブロンソンは神出鬼没で、鉄道建設を座って見る姿は「ベルリン天使の歌」の天使を思わせる。

アメリカの大自然や、アメリカ西部劇ではありえないファッショナブルなダスターコートを着たギャングの集団など、ビジュアル重視の映像詩であり、優れたデザインとカメラワークが一体化した印象深い美しい場面は無数にあるが、何度見ても感心してしまうのが、ブロンソンの肌の質感である。日焼けしたなめし皮のようで人間離れした感があり、目も必要ないのではないかと思うほど、肌の質感やしわだけでいろんなことを語っている。男の肌の美しさの究極である。日に焼けた茶色の肌とそれより薄い色のベージュのグラデーションによる衣装が埃っぽい周りの風景と一体化しているデザインの素晴らしさ!一方のフォンダはマカロニお決まりの黒ずくめだが、青空と白い雲とのコントラストが強調してあり、これも人の子ではない雰囲気。おとぎ話は、最後の鉄道建設の速さにも表れている。カルディナーレは同じ黒のブラウスなのに、工事がどんどん進んでいく。

「Good , Bad and The Ugly」よりも優れた作品だが、これはさらにマカロニ度が薄い。イーストウッド主演の三部作を撮ったのは商売的に自然な流れだが、イタリア人のレオーネがおとぎ話とはいえ、真っ向からアメリカ西部の歴史を撮ったのは不思議だ。各監督や脚本家個人の政治的信条や当時のイタリアの状況がどのように作品に影響しているのか気になるところだ。

イーストウッド=レオーネ作品は見慣れていたし、アメリカ人が英語をしゃべっているから違和感がないが、イタリア人俳優たちがメキシコや西部を舞台に(実際の撮影地はヨーロッパがほとんど)、メキシコ人やアメリカ人としてイタリア語をしゃべり、それを英語字幕(または日本語字幕)で見るという状況はかなりぶっ飛んでいる。映画の中にしか存在しない世界だが、その中には確かに、当時のそして西部劇時代の現実社会や監督・脚本家の信条が反映されている。もちろん、ハリウッドの金で作ったレオーネ作品より、イタリア国内が主なターゲットのコルブッチ作品はより過激で暴力的、政治的にも宗教的にもシニカルということも言える。
それにしても、いくら西部劇が好きで、黒澤の「用心棒」に刺激され、マカロニ映画を作って商業的に当たり、汚職が横行するイタリアの現実社会に対応するメッセージさえ盛り込めるからといって、イタリア人がウエスタン映画を撮ったこの分量と質はすごい。たとえば日本人がカンフー映画を何百本も短期間に撮るようなものだ。映画に対する愛と節操のなさ(著作権という概念は存在しないようだ)や軽薄さ、常に人々とともにある姿勢のマカロニ映画から見えてくるイタリアに行きたくなる。ビバ・マカロニ!ビバ・イタリア!