お色気昭和歌謡、谷ナオミ、団鬼六

レアな音楽や映画をただでダウンロードするのに情熱を傾けている夫が、お色気昭和歌謡の名盤(再発)を入手した。以下は、これらのアルバムの時代に育ったが、リアルタイムで聞くには幼かった私の、個人的な感想。



麻里圭子「Girl Friend Baby Doll」:無邪気でセクシーな「可愛い年上の女」を演出し、男子の「実用」「鑑賞」両方の目的にかなう作品、と思うが、男の意見も聞いてみたいところだ。前半はフレンチポップスやムード音楽にのせて、ひたすら「いやよ」「ダメ」とか言ってる。プティ・マミという名義の通り、セクシーなフレンチポップスの雰囲気を目指して、ある程度成功している。後半はもう少し長い台詞が入るドラマと歌仕立てで、70年代初期の明るい恋愛風景と、四畳半のアパートでこのレコードを一人で聞いている男の姿と、両方鮮やかに浮かんでくる。麻里圭子は富士宮ミキ の名で「ゴジラ対ヘドラ」で名曲「かえせ!太陽を」を歌い、最大のヒット曲は「サインはV」という、不思議な歌手だ。

桑原幸子とあなた」はエロ電話風演出だが、ストレートすぎてエロくもおかしくもない。田口久美 「東京エマニエル夫人」はストレートでおかしい。


池玲子「恍惚の世界」:石井輝男のヘタウマ映画以外で、この人は歌ってはいけない。セクシーさを演出しようとしてかラテン打楽器を多用しているが、繰り返しが多くいかにもやる気なさそうなアレンジ。逆に彼女の声はがんばりすぎて、ベッドよりはトイレの中を連想させる。チープなおかしさはあるが、再度の鑑賞には堪えない。とはいえ、このジャケットだけでも見る価値あり。



谷ナオミ「悶えの部屋」:さすがSMの女王、いちばん聞きごたえがある。歌なしで、ナレーションと和風にアレンジされた歌謡曲の伴奏だけなのが、かえってそそられる。と同時に、お色気を突き抜けたすごさと笑いがある(麻里圭子もおかしいが、彼女ほどではない)。台詞を抜書きしてみる。しっとりした色っぽい声を想像されたし。「ねえ、ライトもう少し明るくして。枕元にあるでしょ。そう、それ回すの。そう、それくらいでいいわ(インフォマーシャル!?)」「あなた、煙草吸うんでしょ。男って必ず煙草吸うんだもの。おかしいわね。どうしてかしら」「冷えてきたわ。ほら、こんなに胸も冷たくなって。あなたは平気?男と女って体が違うのかしら」。

中国系アメリカ人の夫に同時通訳して、二人で笑い転げた。言葉によるユーモアはいちばん翻訳しにくいが、これは全く問題ない。感情よりも行動や状況を描写する、短い文章でできていて「サターデナイトライブ」のコントのようだ。感情を直接言葉で表さない台詞は、もちろん演技力がなければ成立たないが、それにしてもこの構成と台本は只者の仕業ではない。調べてみたら、ストリップの名物記者で「日本ストリップ50年史」という著書もある「みのわひろお」という人だった。

SM小説の大家というイメージからは意外な、「美少年」という題名にひかれて、団鬼六の短編集を買ったところだった。谷ナオミの半生を描いた「妖花」が収録されている偶然にうれしくなり、彼女の映画二本を見てみた。


花と蛇」:ひたすらハードなSMと思ったらコメディ仕立てで、しかもかなりおかしいことにまずびっくり。どこが「ロマン」ポルノだ、と思ったが、最後まで見て納得。SMという異端の趣味を持った(持たされた)人々が愛し合う純愛物語だ。脇役の演技水準が一般映画より低くても、気にならない。苛められてMに開眼する谷ナオミの悶える表情があまりにも素晴らしく、しあわせそうだからだ。濃く古臭いメイクも、プロ意識の表れとしても、上品な夫人が乱れるのに必要な前提としても取れる。性をコメディとして描くのも、「美少年」の中に収録されている私小説「不貞の季節」に見られる、自分を徹底的に突き放して見る態度と共通している。おかしくも哀しいセックス(他人のはなおさら)を自覚した上で自分の性向を知り、それを充足させようとする、大人のラブストーリーだ。薔薇(男により丹精された花=女)の香りをかぎながら「男って可愛いわ」と言う、谷ナオミの最後のキメ台詞にしびれる。



「生贄夫人」:監督は「花と蛇」と同じ小沼勝で、これも1974年の作品だが、無駄のないシリアスなハードコアSMだ。緊縛とそれを見せる構図もより洗練され、分かれた夫に拉致され、花嫁衣裳(和服)で宙吊りになってる谷ナオミや、心中未遂カップルを監禁して二組で行うセックス場面など、芸術の域に達している。谷ナオミは文句なしに美しい。監禁SMによりお互いを憎みあうようになるカップルの女が男に「あなたなんか死んじゃえばいい」というのを受けて、谷ナオミが微笑みながら、Mに開眼してから愛するようになった夫に向けて、同じ台詞を言うのがすごい。「花と蛇」に比べ、殆どユーモアはないが、緊縛美のすごさのあまり、笑いそうになることはある(ホラー映画で笑う感覚と一緒かも)。無理やりはめさせた指輪から鎖が伸びる、というアッと驚く拉致の方法以外は前代未聞なSMの手法はないが、見せ方がプロだ。美しさでは「花と蛇」にはるかに勝り、SM愛好者にはたぶんこちらの方が正統なのだろうが(団鬼六原作ではないが、主人公の情けない男も「花と蛇」より団鬼六自身のように見える)ノーマルな自分と重ね合わせられる度合いは減り、ファンタジーの要素が強くなる。SとMが充足しあいハッピーエンドな「花と蛇」に比べ、Mに開眼しきった谷ナオミに夫がびびって逃げ出す終わりも、女性崇拝する一種のフェミニスト的であることは間違いない。が、神になることなんか望んじゃいない、男と対等に楽しみたい女(これも幻想かもしれないが)の目から見れば、濃密な別世界を旅した後だけに疲れる。で、タイプは違うものの「花と蛇」同様、この作品を見ていやらしい気持ちになる度合いは実はあまりなく、映画としてはどちらも面白い。

短編集「美少年」に収録の、妻と緊縛師の不倫を描いた「不貞の季節」も、めちゃくちゃ面白いが、やはり私小説である表題作は、さらに文学的な凄みがある。その分、どこまでが事実かは謎だが、傑作だ。「不貞の季節」によると、「花と蛇」を書き出した頃はセックスにおける力関係を描いていただけで、SMを実践していたわけではないそうだ。責める男と責められる女の原型になったのは、大学時代に出会った、どんな女よりも女らしい日本舞踊の御曹司との関係である。卒業を機に別れようとする「私」を、娘道成寺姿の恋人は清姫のように激しく追いかけてくる(おかしくも凄絶)。友人である学生ヤクザにオカマをほらせて関係を清算しようとし、それを傍観しながら快感に酔う「私」。男女の区別は曖昧になり、性における力関係だけが確かな、途方もなく自由で豊かな世界だ。それとは対照的な伝統文化も、学生ヤクザだった友人が死にかけていて「私」と昔話をしている、という設定も、死に向かう存在である人間のラジカルな世界観を深めている。三池崇史が映画化し、今年公開予定らしい。小説ほどに美しく、演技ができる青年がいるはずはなく、がっかりすることは分っているが、早く見たい。