Kick Ass キック・アス


ケツに蹴りを入れられたほどインパクトがあり、断然イケてるという意味の題名通りの映画である。その一番の理由は、「キック・アス」と名乗る、スーパーパワーを持たないスーパーヒーローの主人公ではなく、「ヒットガール」という、復讐の念に燃える父親(ニコラス・ケイジ)から殺人の訓練を受けた、クロエ・モレッツ演じる11歳の少女だ。ニューヨーク近郊の高校に通うおタク系男子のデイブは、「なぜ、実際に(アメコミの中の)スーパーヒーローになる人がいないのか」という疑問を持ち、それを自ら実践しようとする。が、武道の達人でもなく、バットモービルを買えるような金持ちでもないので、通販で手に入れたウェットスーツとマスクだけが、弱きを助け強きをくじくスーパーヒーローになる手段である。いじめられている少年を助けようとして悪者にボコられ、それでもめげずに戦う携帯画像がユーチューブに流れ、一夜にしてスターとなる。名前を尋ねられた彼は、イケてる奴になりたいという願望を込めて、「キック・アス」と答える。

キック・アスになる前のデイブは、教師の巨乳を眼に焼き付けておき、後でマスタベーションのオカズにする、女の子たちから見向きもされない、イケてない高校生だった。スーパーヒーロー願望が、性的ファンタジーの昇華としてユーモラスに描かれる。スパイダーマンのモットーは、"Great power comes with great responsibility(大いなる力には大きな責任が伴う)"である。理論上はスーパーパワーがなければ責任もないことになるが、現実は違い、"With no power, comes no responsibility, except that wasn't true."とキック・アスはつぶやく。スーパーパワーがなくても実際には厳しい現実と戦わなければならない。つまり、スーパーヒーロー映画は現実と願望が入り混じったファンタジーであり、だからこそ普通の人間である多くの観客に支持される。ちなみに、デイブの家は、スパイダーマンである高校生ピーター・パーカーが住む、ニューヨークの平凡な住宅街クィーンズにそっくりだ。

やはりスーパーヒーローを分析したスーパーヒーロー映画である「ウォッチメン」と対照的なこの設定だけでも十分面白いが、キック・アスは真の主人公であるヒットガールの引き立て役にすぎない。いわば、ヒットガールが劇中劇のヒーローになっている二重構造だ(「ウォッチメン」ではスーパーヒーローもセックスにはファンタジーが必要だという場面が面白かったが、重要な場面とはいえず、逆にこの作品ではその観点が中心になっている)。「キル・ビル」で栗山千明が演じたゴーゴー夕張を7歳ほど若くして、さらに過激にしたような役だ。殺す人間の数も段違いに多い。「キル・ビル」でゴーゴーが一番好きで、もっと彼女が見たいと思った私のような観客は大満足すること請け合い。ヒット・ガールの父親は元刑事で、イタリア系マフィアにはめられて投獄され、復讐のために、娘を殺人マシンとして訓練した。そのマフィアは偶然キック・アスの敵となり、バットマンのような格好のビッグ・ダディ(ケイジ)とヒット・ガールが彼を助けにくる。ヒット・ガールの可愛い顔と子供ながらの口の悪さのギャップが爽快で、黒いマスクの下の上向きの鼻も可愛い(頼むから整形しないで!)。途中で彼女の出番が少なくなり、不満に感じるが、それだけに、「バッド・レピュテーション」が流れる中での、銃とナイフ、血とワイヤーアクション満載のクライマックスは爆発状態だ。アンジェリーナ・ジョリーミラ・ジョヴォヴィッチのようなセックスシンボルになるには幼すぎるヒットガールのアクション場面は純粋に爽快で、真のガールズエンパワーメントを感じさせる。この場面だけに限らず、選曲センスも良く、スパークスの「This town ain’t big enough for both of us」、Dickies の「Banana Splits」(ラララララララ、という声が耳から離れない)などの70年代ロックが効果的に使われている。

ニコラス・ケイジも「アダプテーション」以来の好演である。これで、日本のコマーシャルで「パチンコ!」と叫ぶ必要もなくなるだろうか。テレビ版バットマンを真似た素っ頓狂なしゃべりと、そのユーモアを効果的に見せる復讐鬼としての緊張感がある。彼以外の俳優が父親役だったら、幼児虐待として非難されていたかもしれない。彼以外の誰が、娘に防弾チョッキを着せて至近距離で撃ち、立ち上がらせる訓練をユーモラスに見せることができるだろうか。彼のユーモアがあってこそ、安心して血まみれの虚構を楽しむことができる。